小論の主旨である、
- 社会起業家が求められるようになった背景に、小さな政府への移行と、単なる善意のジェスチャーに留まらず具体的な結果を求める社会的投資への潮流がある
- 社会起業家は、働き甲斐・生き甲斐を感じられる生き方として、お金や出世のために競争に身をすり減らしながら働くことに疑問を抱く若者たちの心を惹きつけている
- 現在の日本の社会起業家の最大の問題の一つにビジネススキルの乏しさがある
しかし、田坂氏の「日本型経営」を理想化する以下のような議論には違和感を覚えました。
日本型経営においては、そもそも「社会貢献」と「利益追求」は、決して矛盾するものではなかった「社会貢献」と「利益追求」を合致させると言えば、理念としては立派です。常にそれができるに越した事はありませんが、実際に企業を経営していれば、この二つが矛盾してくる局面も出てくる現実は、何も海外に限りません。日本で企業を経営したからといって、魔法のように社会貢献と利益追求の間の緊張関係が消えてなくなるはずはありません。
日本型資本主義と日本型経営の歴史を振り返るならば、この国に生まれてきた多くの企業家や事業家は、まさに「企業家的手法を用いて社会的問題に取り組む人材」であり、文字通り「社会起業家」と呼ぶべき人材であったと言える
我々は、海外の動きに表層的に追随することなく、何よりも、こうした日本型経営の原点を深く見つめ、その精神と思想に回帰するべきであろう
その矛盾を、高いレベルで解決してきた志高く優れた経営者は、日本にもいたし、アメリカにも欧州にも、世界中の社会にもいました。逆に目先の利益追求に専念する経営者も、日本を含めて世界中どこにだっていたわけです。
そうでなかったら、つまり、もし田坂氏の説く「日本型経営」が単なる精神論でなく歴史的現実であったとすれば、何故いまだに日本では企業活動を悪者視する風潮がここまで根強いのか、甚だ不可解と言わざるを得ません。
少し話が横に逸れますが、一般に「日本型経営」と言われるものの特徴として、他にも終身雇用や年功序列などがよく挙げられます。実はこれらも、何もそこまで日本に特殊なものではなく、以前は欧米の企業でも広く見られた慣行でした。経済の仕組みが進化を続ける中で、経済合理性に合わないやり方は少しずつ捨てられ、それができない企業は淘汰されました。過去の一時期の経済状況に適応して成り立っていた慣行を、文脈から切り離して「日本型経営」などと呼んで理想視しても、ノスタルジーを満足させる以外に何の役にも立ちません。
ともあれ、社会起業家や社会的企業を、一度も存在しえなかった社会貢献と利益追求が矛盾しない理想状態への「回帰」として捉える語り口は、一部のロマンチストには受けるでしょうが、現実の経済を理解し動かしている人たちの大部分には耳触りの良い話として聞き流される程度で、本当の現状変革や問題解決には結びつかないでしょう。
最近、東洋経済に藤田晋氏等による社会起業家についての懐疑的・批判的なコメントが載せられ、社会起業家に関心のある人たちの間でちょっとした話題になりました。また、堀江貴文氏がブログで「社会起業家とか眠たいこと言ってんじゃねーよ」と書いたり、Twitterでも池田信夫氏が「「社会的起業」なんてナンセンス」と発言しているなど、「社会起業家」というキーワードが徐々に注目を集めるようになるにつれ、これまで一般の耳目には触れる機会が少なかった懐疑的な意見も聞こえてくるようになりました。
こういう人たちにも社会起業家の意義を納得させることができなければ、学生やメディア、政治家・官僚の中に魅力的なキーワードに飛びついて来る人はいたとしても、現在の経済や社会の構造を大本から動かすことはできません。
そのためには、根拠の希薄な特殊性や現実から乖離した理想を拠り所にして、社会貢献と利益追求の間の緊張関係が存在しないかのように信じ込むのではなく、その間にある齟齬を直視しなくてはなりません。社会起業家や社会的企業は、この齟齬を社会・経済システム全体としてより高いレベルで解決するための新たなグランドデザインにおいて不可欠な役割を果たす主体として説明される必要があると、私は考えています。
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