2008年2月23日土曜日

びっくり

前回のKivaに関するエントリーが、なんと当のTactical Philanthropyで取り上げられました。

とは言っても、私の書いた内容についてではなく、ブログが国境を越えて迅速にアイデアを伝播する力についてという趣旨でですが。日本語のエントリーだったので、何が書かれているかSean Stannard-Stockton氏には理解不能ですから。

元々このブログを昨年始めた時には、大まかに日本語と英語のエントリーを半々くらいで書くつもりでした。最近ちょっとなまけて日本語ばかりになっていて、「そろそろ久しぶりに英語でも書かないと」と思っていたのですが、かえって日本語で書いていることによってこんな楽しいサプライズがあるとは。世の中面白いもんです。

2008年2月18日月曜日

Kivaの売切御免

先月末のNew York Timesに、インターネットを利用したP2Pのマイクロファイナンスというユニークなビジネスモデルで脚光を浴びるKivaに関する記事が載っていました。あまりの人気で、ついにこの度全ての借り手に資金が貸し付けられ、それ以上貸したくてもお断りになるという、売切御免の状況が発生したという話です。

しっかりした運営方針を持つ非営利団体がキャパシティ以上の寄付を断るというのは、実はそれほど珍しい事ではないのですが、注目を集めているKivaだけに話題性が高いということで記事になったのでしょう。

これを読んだときは、「さすがKiva、資金供給が激増しているからと言って、安易にパートナー選択の基準を緩めたりせずに真面目な良い仕事をしてるんだな」程度の感想を抱いただけでした。

ところがその後、Financial Timesでもフィランソロピーに関する連載コラムを持つSean Stannard-StocktonのTactical Philanthropyというブログで、この話題に関する大変興味深い議論のやり取りが展開されています。

詳細な内容にご関心のある方はTactical Philanthropyの方をご覧頂くとして、主な論点としては以下の二つ。

  1. 「売切れにするのではなく、他の類似サービスに紹介する義務があるのではないか」 ← 証券取引所ではこのような規則があり、実際に非営利の世界でも、GlobalGivingでは必要に応じてそのような紹介を行っているそうです。
  2. 「サービスへの需要が高くて売り切れるのならば、市場論理に従い価格調整によって需給のバランスを取るということも一考に値するのではないか。つまり、貸し手の資金が100%借り手に渡る現状から、10%をKivaがサービス料として徴収し、それをボトルネックとなっているパートナーMFIの開拓のための資金に充てるということはできないか」 ← これに対しKivaは、「10%のサービス料では焼け石に水だし、第一P2Pの根本価値を損ねる」と回答しています。

この一件は私が友人たちと取り組んでいる「社会貢献価値」取引所の設計にも、大切な示唆を与えてくれます。

何よりも、Kivaユーザーのコメントからも明らかなように、

  • 善意の実質的な結果をその提供者に伝達する仕組み
  • 人々の善意を一回毎の使い切りにするのではなく、循環できる仕組み

に対する需要がいかに大きいか、あらためて認識する良い機会になりました。

2008年2月11日月曜日

ビジネスとしてのマイクロ・ファイナンス

たけやんさんのリクエストにお応えして、前回のエントリーでお話したマイクロ・ファイナンスの授業からの私なりのkey takeawaysを、(まとまっておらず恐縮ですが)箇条書きで列挙してみたいと思います。

  1. 日収$2以下で暮らしている人は全世界で約30億人。内、18億人は生産年齢だが、現在マイクロ・ファイナンスのサービスを受けている人口は1.2億人程度。このため成長余地は大きいと考えられ、また先進国の銀行では考えられないほど利益率も高いことから、ビジネスチャンスに関心を持った金融界から大量の資金が流入してきている。
  2. CGAPの2004年度調査によると、海外資金によるMFIへの投資のうち、69%が債権、23%が株式、残りが信用保証の形式を取る。
  3. MFIのローンの証券化、流通市場創設への動きが現在進行中。
  4. 資金供給過多に対して、MFI側のキャパシティが追いついていない。特にボトルネックになっているのは、マネージャー人材。リテール銀行の出身者は大歓迎される。ローンオフィサーの人材獲得競争も深刻。
  5. 30億人の貧困層全てが本当にマイクロ・ファイナンスを必要としているかは、議論の余地あり。これまでマイクロ・ファイナンスが主に対象としてきたのは、貧困層の中では中~上位の層。絶対貧困層は金融サービスのメリットを享受できる状態ではなく、その前にまずは従来型の開発援助(教育、保健衛生、雇用訓練、等)が必要と考える人も多い。
  6. また、彼らに実際にマイクロ・ファイナンスを提供することが可能なのかどうかも不確か。これまでマイクロファイナンスは、農村地域に金融サービスを提供することに貢献してきたが、主な成功例はどれも過密人口国。最貧困層の住む遠隔の過疎地には、コストがかかりすぎるため到達できていない。ITの活用に注目が集まっているが、携帯電話網等のインフラの無い地域ではITも役に立たない。
  7. マイクロ・ファイナンスの貧困削減効果について語るときに、ローンによって貧困層の起業を助けることで収入源を増やすというロジックが使われることが多いが、実際に起業資金に使われるケースは少数。
  8. ただ、起業資金以外に使われるローンには貧困削減効果が無いと考えるのは誤解。冠婚葬祭や緊急時(稼ぎ手の死亡、災害、事故、病気、盗難、etc.)、その他出産、子供の進学、住宅購入等の一時的に大きな支出が必要な時に、資金源がないために闇金融に頼るしかなくてさらなる困窮に陥っていた人々に、新しく健全な資金源が提供されることだけでも、大きな意義がある。事業の運転資金も重要。
  9. 基本的なビジネスモデルは、低金利(慈善資金を含む)で資金を調達し、闇金融よりは低く銀行よりははるかに高い金利で貸し出すことで利益を出す。費用構造はほとんどが営業費用で、これも銀行よりははるかに高い。低賃金で一生懸命働くローンオフィサーの存在は大きい。ローンオフィサーの業務効率と、ポートフォリオの質(不良債権の比率)は、MFIの業績を左右する最大の要因。
  10. 貸し倒れ率1%と言った数字が一人歩きしている観があるが、鵜呑みは禁物。不良債権計上を遅らせたり、返済期間繰り延べを行って帳簿上の貸し倒れ率を低く抑えているだけという場合もある。また、グループローンでは一人が返済できなくてもグループの他のメンバーが返済することで、貸し倒れ率は低くなるが、返済できなかった個人への過度のプレッシャーにより社会問題になることもある。ただ、そうは言っても、全般的にMFIの貸し倒れ率が一般の銀行に比べ圧倒的に低いという事実は変わらない。
  11. MFIの強みはリテール、特に地方・貧困層への浸透力。銀行とマイクロファイナンスの間で相互参入が進み、境界が曖昧になる中で、競争は激化しており、強みを伸ばしていかないと生き残れない。プラハラードの『ネクスト・マーケット 「貧困層」を「顧客」に変える次世代ビジネス戦略』でも紹介されているICICIは、銀行とMFIのそれぞれの強みを活かし分業体制を築いた好例。
  12. 営利事業化が進行中。「慈善資金に頼っていてはサービス拡大に限界があるため、持続性を確立し、事業拡大を図るには営利事業化は必然」という見解がある一方で、「貧困削減の目的をm見失っては、マイクロ・ファイナンスが単なる高利貸しの美名になってしまう」として警戒する人たちも多い。
  13. 現在のところ、営利MFIが非営利MFIよりも効率的、または利益率が高いといった主張には、必ずしもデータによる裏付けが無い。
  14. 担保を持たない貧困層のため、社会的信用を担保にするグループローンの手法が有名だが、最近は個人ローンに重点を移すMFIの例が増えている。個人ローンは金額が通常グループローンに比べ高いため、MFIの業績には好材料だが、一方で貧困削減という観点からはグループローンは今なお重要。
  15. ソーシャルセクターとしては例外的にデータの標準化や情報開示への取り組みが進んでいるが、貧困削減効果に関しては「ローンあたりの金額」以外に標準的に比較可能なデータが無い。
  16. 現在ではほとんどのMFIがローンだけでなく、貯蓄商品を提供している。また、送金サービスも需要が高く成長している。
  17. マイクロ・インシュランス(低所得層向け保険商品)は、貧困削減効果が高いとして注目はされているが、いまだビジネスモデルとしては未発達。つい先日、ゲイツ財団が、Opportunity Internationalの運営するMicro Insurance Agency2400万ドルの支援を行うことが報道され、これが起爆剤となることが期待されている。

結論としては、これまで自分の中で持っていたマイクロ・ファイナンスに関する「神話のベール」のようなものを取り払い、客観的にビジネスモデルと業界構造を理解することができたのが最大の成果だったと思います。

2008年2月10日日曜日

マイクロ・ファイナンスの授業

冬学期も早くも半分が終わり、折り返し地点です。

秋学期は、私の関心領域から遠い数字系の必修科目(アカウンティング、統計、ファイナンス)でストレスをつのらせていたのに比べ、今学期は授業も面白いものが多くて好調です。自主的に進めている「社会貢献価値」市場プロジェクトの方も順調に動き始めているので実際の仕事量は多いのですが、キツイ生活があまり精神的負担になっていません。

マイクロ・ファイナンスは、そんな今学期お気に入りの授業の一つ。半学期分のコースなので今週で最後でしたが、5週間にわたる週一回3時間の授業が期待以上に内容の濃いもので、とてもためになりました。

教鞭を取るのはPaul Christensen教授で、彼はShoreCap Internationalというマイクロ・ファイナンスに特化したプライベートエクイティファームの現役COOでもあります。(因みにShoreCapの親会社のShoreBankは、アメリカのコミュニティバンクの先駆で、ムハマド・ユヌスが彼のマイクロクレジットプログラムを銀行化してグラミン銀行を立ち上げる際に、バングラデシュまで招かれてアドバイスをしたことでも有名。)世界中のMFIに投資し育成してきた彼の実地経験と豊富な知識に基づいた講義は、今大きな転換期に差し掛かっているマイクロ・ファイナンスという業界の構造や、問題と可能性について体系的・効率的に理解するには最高でした。

2008年2月4日月曜日

偽善考 - その4

あるCSRの活動を、そこに利己的な打算が働いているからといって、偽善であると単純に切って捨てるのは、あまり意味がないと思います。そもそも狭義の自社利益と広義の自社利益(≒公共利益)をバランスさせるのがCSRであって、完全に利他的なCSRなど持続不可能です。しかし、企業のような巨大なリソース(ヒト、モノ、カネ、情報)を持つ主体の取る行動は、結果や手続きの観点から、より適切なやり方はないのかが吟味されなくてはなりません。

公共の利益を旗に掲げて大きなリソースを振り向けるからには、そのリソースが完全に私的な性格のものであったとしても、行動の結果や手続きの妥当性については公的な責任を伴います。これはCSRに限らず、NPO/NGOやゲイツ財団のような私的財団、さらには1997年に10億ドルを国連に寄付したテッド・ターナーのような個人についても当てはまる問題です。

ソーシャル・セクターでも最近は、効果・効率に関する結果の議論は盛んになっていますが、手続きに関しては「リソース提供者への説明責任」はより強調される一方で、その行動の対象となる「受益者への説明責任」の方はやや疎かにされているという印象を受けます。一昨年になりますが、The Economistのフィランソロピーの新しい潮流に関する特集記事を執筆したMatthew Bishop氏がインタビューで、"How do these (very wealthy) people dare to impose their view of what a better world is on the rest of us?"という正統性 (legitimacy)の問題を指摘していた事が思い出されます。

さて、これまで4回にわたり長々と偽善に関する考察を書き綴ってきましたが、私の目的は誰かの行動を「偽善である」と糾弾して止めさせることではありません。逆に、視野の狭い私利私欲の追求を礼賛するつもりもありません。

第1回のエントリーへのコメントでみやさんが書いていらっしゃったように、一つの行為やその結果に対しても人によって受け止め方が異なる以上、万人が同意するような普遍的な善など無いのではないかと思います。しかし例え「人が為す善は須く偽善」だとしても、公共善や公共の利益、あるいは社会貢献といった言葉を口にする者は、自分の行いがどのようにすれば一歩でもより善に近づけるのか、常に冷徹かつ謹厳に考え行動に移していかなければなりません。

  • 行動の意図は必要十分に広い視野に基づいているか
  • 行動が効果的かつ効率的に結果に結びついているか
  • 行動の過程には説明責任が担保されており、異なる視点や価値観に開かれたものになっているか

これらの点が全て完璧になることはありえないにしても、より高いレベルでのバランスを達成するために弛まぬ努力が必要なのです。

自分たちの行為が善であることを自明のことと考えてしまうと、中野好夫が『悪人礼賛』で「精神的奇形 (moron)」とこきおろした、脳天気で無軌道で無責任な「善意の善人」になってしまう危険性があります。

それを避けるためには、「善ならざるものとは何か」について掘り下げて考えてみる必要があると思い、愚見を今回このような形でまとめてみました。稚拙な長文にもかかわらず、最後までお付き合い頂きありがとうございます。

2008年2月3日日曜日

偽善考 - その3

これまで、行動の意図を以って善と偽善を分けるのが難しいことを見てきましたが、そもそも善と偽善を分けることには、どんな意味があるのでしょうか。「偽善」という概念の使い道を考えてみると、大きく二つあります。

  • 世間一般には善だと認識されている他者の行動を批判するためのレッテル
  • 自ら善だと信じて行っている行動を省察するための反面教師

善か悪かの判断は、立場や視点、イデオロギーの違いによりますが、白黒はっきりした対立的な性質のものです。それに対して、善か偽善かはグレーゾーンでの判断で、「この行動は本当に善と言ってよいのか、より白に近い善があるのではないか」と警鐘を鳴らす、建設的な可能性を持っています。

だとすると、「人が為す善は須く偽善」とだけ言ってすませ、善と偽善の差異を曖昧なままにしておいては、考察が不十分だということに気づきます。

従来の一般的な「偽善」の定義では、行動の意図が重視されているが、これは善と偽善を分ける軸としてあまり有効でないという私の意見はすでに述べました。それならば、「偽善」の概念が持つ建設的なポテンシャルを活かすために、他のどのような軸を持ってくる必要があるのかを考えなくてはなりません。

私は、より有効な偽善の定義のためには、以下の二つについて着目する必要があると考えます。

  1. 行動の結果: 「善意が敷き詰められた道は地獄に通じている (The road to Hell is paved with good intentions)」と言われるように、善意からの行動がかえって問題を悪化させるという事態は、実際によくあることです。悪化させるには至らなくても、行動が非効果的、非効率的で所期の結果に結びつかないと、善なる行動としての正当性を失い、これが偽善と呼ばれることもあります。例えば、物乞いに小銭を与える行為や、街頭で寄付箱に小銭を入れる行為を見て偽善であるとする人たちは、効果や効率のことを問題にしています。ここで「偽善」という言葉が指しているのは、行動と結果の間の断絶のことになります。
  2. 行動の過程: 目的(意図)は手段を正当化しません。同様に、結果が過程を正当化することもできません。ある行動が善であるためには、意図と結果だけでなく、その過程も重要であると私は考えます。特にここで私が重視するのは、説明責任(accountability)の問題です。ある行動を取る際には、どうしてその行動が適当と考えられるのか、他にどのような選択肢が検討されたのか、その決定には誰の意見が反映されているのか、実際に結果が善いものであるかどうかを判断するのは誰か、といった点を考える必要があります。善意から発して、善い結果を例え生み出していたとしても、手続き上の正当性が欠けている場合には、これもまた「偽善」と呼ばれて如かるべきです。

最もよく使われる、利己的な意図によるという意味での「偽善」と区別するとしたら、1の意味での偽善は「非善」、2の意味での偽善は「独善」または「虚善」とでも言い換えてもいいかもしれません。

2008年2月2日土曜日

偽善考 - その2

企業の場合にも、「我が社の利益」というものを考える時に、その視野をどこまで広げるかには、様々な幅がありえます。

  • タイムスパン: 短期 vs 中期 vs 長期 vs 超長期
  • ステークホルダー: 株主、経営者、従業員、顧客、取引先などのビジネスパートナー、業界、地域コミュニティ、自国、国際社会
  • 利益の種類: 直接的利益 and/or 間接的利益、経済的利益 and/or 社会的利益、機能的利益 and/or 感情的利益
これらの三つの変数について、どこまでを考慮に入れて自社の利益を図るかによって、取るべき行動は変わってきます。

ただ、どこまで行ってもその本来の意図は自己利益の増大であることには、何ら根本的な違いはありません。

例えば、超長期的に国際社会の社会的利益を増大することを意図した企業行動は善で、中期的に地域コミュニティの経済的利益と感情的利益に資することを意図した行動は偽善であるなどと言う事は、誰にもできないのです。

2008年2月1日金曜日

偽善考 - その1

偽善とは何だろうか。2週間ほど前のThe EconomistのCSRに関する特集記事を読んでいて、そんなことを考えました。

偽善とは読んで字の如く「偽りの善」ですから、通常の解釈ではつまるところ、うわべは善い行いをしていても、その底には利己的な意図が働いていることだということになるでしょう。

ここでは、利他的な意図は善と深く結び付けられる一方、表にあらわれる行動がどうあれ利己的な意図は善ならざるものという価値判断が、前提になっています。「善とは何か」という問いに対しては、太古から優れた思想家が色んなことを言っていますが、要するに何らかの道徳的・倫理的規範に沿った行いのことです。してみると、そうした規範を顧みることなく、自らの気の向くままやりたい放題のことをやっていては、当然「善」を実現することはできないということになるでしょう。

ただ、本当に利他的意図は、利己的意図とは相容れない全く反対の概念なのでしょうか。

The Economistの記事ではCSRについて、結局それは「enlightened self-interest」に基づいた企業行動のことだと結論しています。私も、利他的意図と利己的意図は対極の関係にあるのではなく、「自己」というものを理解する際にその包含する範囲を少しずつ広げていったグラデーションの差でしかないと考えています。「自己」の概念が、生物学的自己から始まって、家族、共同体、民族、国家、人種、人類、未来の人類、地球上の生物というように広がっていく時に、狭小な「自己利益 (self-interest)」は、空間や時間の壁を越えた「視野の広い自己利益 (enlightened self-interest)」へと移行していくのだと思います。

このように考えると、「真の善」と(利己的な意図によるという意味での)「偽りの善」も連続した関係にあり、必ずしも一方は賞賛されるべきで他方は非難されるべきということではない気がしてきます。

「為さぬ善より為す偽善」という言葉があります。よく見てみると、「偽」という漢字は「人」が「為す」と書くことに気づきます。極論すれば「人が為す善は須く偽善」とさえ言えそうです。