2009年5月23日土曜日

そもそも社会起業って何? - その2

さてさて、前回「そもそも社会起業って何? - その1」で、私から読者の方に変な問題を出しておきながら、お待たせしてしまいました。

次の4つの文章の中から正しいものを一つ選んでください
A. 社会起業をする人が社会起業家である
B. 社会起業家がやることが社会起業である
C. AとBの両方正しい
D. AとBの両方間違っている
まぁ、私が戯れに即興で考えた問題に過ぎませんので、本当のところ唯一無二の正解なんてものはありません。

ただ、普通にいたって素直に考えれば、Cと答えそうなものです。

「だけど、わざわざこんな質問をしてくるってことは、AかBのどちらかが間違ってるって言いたいのか?」と勘ぐれば、あまがえるさんや、sick_drunkerさん、scopioさんのようにAと答える方が多いかと思います。なんといっても「社会起業家」という言葉を見れば、「社会起業」にそれをする人という意味の「家」がくっついた形になってますから。

このブログのコメント欄ではありませんでしたが、他のところで、単に起業しただけじゃなくて結果を出さなくては社会起業家と呼ぶには足りないからという理由で、Dと答えられた方もいます。

金のスナさんの「概念の束縛などを受けない行動の中にこそ本質的な革新性が見いだせる」のだから「解なし」では、という答えも面白いと思います。

どれも一理あるので全て正解 ...ってことで終わらせてはあまりにもつまらないんで、 私は敢えてここではBが正解だと主張してみたいと思います。

確かに「社会起業をする人が社会起業家である」というのは、日本語の字面をみているとこちらの方が正しく見えます。

しかし、社会起業 = social entrepreneurship、社会起業家 = social entrepreneur として考えてみるとどうでしょうか?「social entrepreneur がやることがsocial entrepreneurshipである」という言い方の方が妥当だと思います。

こんな屁理屈を言うと、「今ここでは日本語で対話をしているのに、何で英語を持ち出してこなきゃいけないんだ?英語カブレになってるんじゃないの?」という声が聞こえてきそうですが、ちょっと待ってください。

まず、社会起業家っていうコンセプトは、今まさにグローバルな規模で起きている市民社会と企業と政府との間の関わり方の大変革の文脈に置かないとその本質を理解できません。(これについては後ほど詳述します。)

また、私たちが住む世界では、貧困、環境、格差、病気、人権といったいわゆる「社会問題」というものも、国境の向こうや地球の裏側で起きているアクションの連環と密接に結びついています。社会起業家の活動は国際的なものでも、全国規模でも、コミュニティレベルのものでもよいのですが、そこにはグローバルな視野がなくては、原因の根本的な理解も、解決策の最適化もできなくなっているのです。

だから、社会起業家って何だろうと考えるときには、世界中のsocial enterpreneurたちの一人であることを認識する必要があると思います。「野球はbaseballとは違う」みたいなことを言っていられる類の話ではないのです。

「social entrepreneur がやることがsocial entrepreneurshipである」と考えるべきだと私が主張する理由がもう一つあるのですが、そろそろ長くなってきたので次回書くことにします。

8 件のコメント:

  1. Cloudgrabberさん

    その1の議論と併せて心意気ある問題提起素晴らしいですね。前回の投稿で書かれていた下記コメントに心意気感じ、僕もディスカッション、参加させてくださいます。

    『「ただの一過性のブームで終わるだろうな」ではなく、「ただの一過性のブームで終わらせてはならない」と考えていますから、そのために何をしなくてはならないのかを見据えて行動していきたいと思います。今はまだふわふわした綿毛に見えるこの現象の中には、社会問題解決へのアプローチとして真に価値がある核心が埋まっていると信じているので。』

    個人的に思っている定義を先にお伝えしますね。

    「(社会起業とは)社会的な問題を解決する際、ビジネス的な手法・リソースを用いて、持続可能な形で、より直接的に、事業(ビジネス)を通じて、問題解決をすること。またそのような事業を行う人を「他者が見た際に」、その人を社会起業家、或いは社会起業家「的」であるという。」というような認識・印象を持っています。

    なのでcloudgrabberさんの問いに対しては「E:該当なし」で「その他」となります。

    ただ、cloudgrabberさんのおっしゃる定義、「
    B. 社会起業家がやることが社会起業である」にあえてコメントするならば、社会起業家というのを自称するか、評価した他者が言うかによっても意味合いがだいぶ異なってくるのでは、と思ってます。

    先日NHKの番組で社会起業家が話題になり、ワタミの渡邊社長がコメントされた際(これからは社会起業家の時代だ、という番組の捉え方、お金を稼ぐことに興味がない、という録画で紹介された若者の声に反応し)、社会の役に立たないビジネスなどは存続しえない、というような話を戒めと供にされていたのが印象的でした。

    株式会社を経営されている渡邉社長の掲げることテーマとしては、「外食を通じて家族、コミュニティに笑顔をもたらす」、というようなビジョンがあると思います。世界の飢餓、戦争、環境破壊という問題を直接的に解決してはないかもしれないものの、人々の生活を確実に豊かにしている尊い事業活動だと思います。

    貧困撲滅、医療介護問題等、それが国内であれ国外であれ、今まで市場が存在してないことで、課題解決されてなかった問題に対し、より「欲張りな」(特に若い)世代が増えてきており、より直接的に、持続的に解決をするため、試行錯誤をする中で、ビジネス的な手法を用い、成功している事象が昨今増えており、「結果的に」それを人が社会起業家と呼んでいた、というのが実際多くのケースなのでは、という気がします。

    なので昨今のやや過熱気味のメディアでの取り上げ方の中で、「社会起業家」と呼ばれ「偶像視」されてしまった方はやや居心地の悪さを感じ、また「社会起業家」を自称し、既存の起業家や資本主義そのものを真っ向から否定するような言動を(様々な理由があるにせよ)発し、それを人が見聞きした際、居心地の悪さ、不自然さを感じるのではないでしょうか。ワタミ社長が戒めたのはそんな点があったのでは、と思っています。

    cloudgrabberさんの想いは、自分もかつてブログで書いたこともあり、改めてスタンスをとりながら議論に参加できたら、と思っています。

    長文失礼しました!

    *「なぜ今社会起業家か」と題して(2002年)
    http://www.socialcompany.org/profile/whysenow2002

    最後に好きな言葉を1つ。
    「道徳なき経済は罪悪である。経済なき道徳は寝言である」(二宮尊徳)

    ichi

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  2. > ichiさん

    おっしゃるとおり、あらゆる呼称や肩書きは、呼ぶ側と呼ばれる側の関係性の中で機能するものですから、「他者が見た際に」という視点をなくしては語れません。

    ですから、例えばマザーハウスの山口絵里子が「自分は自分を社会起業家だと全く思っていない」とおっしゃっても、私は周囲が彼女を社会起業家だとみなせば、彼女は社会起業家なのだと思います。

    一つお断りしておきたいのですが、「社会起業家がやることが社会起業である」というのは、私の定義というよりも、「社会起業家とは何か」、その本質を考えるための出発点というか方向性でしかありません。これがどういうことなのか、ブログ本文で書いていきます。

    「偶像視」の問題については、ちょうど今K.A.Luckyさんとも以下の記事コメント欄で話しているので、こちらもご参照いただけると幸甚です。

    http://cloudgrabber.blogspot.com/2009/05/blog-post_1326.html#comments

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  3. > ichiさん

    「道徳ある経済を謳いながら、そこへの道筋を指し示すことができないものは、偽善者と呼ばれても仕方ない」ってのはどうでしょう?

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  4. あまがえる2009年5月24日 10:17

    ”social entrepreneurship”興味深いです。
    次回の記事も楽しみにしています。

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  5. cloudgrabberさん

    >「社会起業家とは何か」、その本質を考えるための出発>点というか方向性でしかありません。これがどういうこ>となのか、ブログ本文で書いていきます。

    もちろん了解してます:-)。なかなか白黒つけにくい部分もあると思いながらも、議論すること事態にも意味はあると思うので、その過程を通じて本質が見つけられるといいですね。

    >「道徳ある経済を謳いながら、そこへの道筋を指し示す>ことができないものは、偽善者と呼ばれても仕方な
    >い」ってのはどうでしょう?

    こちらはこれだけではお答えできないのですが、企業も個人も、理想・道徳を掲げながらも、十分に道筋を示せず、十分に実現できてないケースもどうしてもあるとは思います。

    ふと思い出したのですが、以前に「CSR」という言葉が広く「ブーム」として語られた際、例えばエコノミスト誌が「反CSR的な」視点にたった特集記事を掲載したことがありました。CSR、社会起業家というような言葉にまつわる、経済と道徳の問題は神学論争的な要素もあるのでは、と思ってしまうほど、まだまだ分かりにくい要素はある、と個人的には思ってしまいました。

    エコノミストの記事の読書メモ、よろしければ
    http://archive.mag2.com/0000147400/20050206230000000.html?start=59

    「よいマネジメント」をひとりひとり目指すことの大切さを、自戒も込めて感じます。

    考えるきっかけを頂き、有難うございました!

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  6. > あまがえるさん

    いつもコメントありがとうございます。励みになります!

    > ichiさん

    「理想・道徳を掲げながらも、十分に道筋を示せず、十分に実現できてない」のはある程度仕方ない部分はあると思うのですが、それに疑問を感じて、どうすれば道が開けるのか、頭をひねり続け、動き続けることが大切なのでしょうね。

    エコノミスト誌の記事読んだ覚えあります。CSRについては、実は私自身も否定的ではないけど結構懐疑的です。ですから、エコノミストの論旨にも完全に賛同はしないまでも、十分腑に落ちる部分もありました。最近読んだ本では、Robert ReichのSupercapitalismが、エコノミストの議論よりはより深い洞察に基づいてCSRに批判的な議論をしていたように思いました。

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  7. なんだか謎かけが消化不良に終わったような気がしますが、社会企業家同士がグローバルに関わることが、現代の社会企業だと翻訳すると、意味が通る気がします。

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  8. > scorpioさん

    すみません、なんだか尻切れトンボのまま放置してしまっていますが、ちゃんと続きを書きますのでお楽しみに。

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