2009年5月6日水曜日

『無私』のビジネスでは世界を変えられない

5月2日の日経新聞朝刊にムハマド・ユヌス氏のインタビューが掲載されていたようですね。(複数のブログで取り上げられていて知ったのですが、日経のサイトでは何故か見つからず、記事全文はこちらで読みました。)
ソーシャルビジネスを手がける企業が上場する株式市場も設立したい。ストリートチルドレンを救済している企業はどこか、医療のソーシャルビジネスはどこか、すぐに探して投資することができる。私の身近にいる学生たちはインターネットを使った市場の創設などを議論している。上場する際には厳正に審査し、本当に適合する企業だけが上場する仕組みを作る。上場はその企業に認証を与えることになるので、知名度向上にも役立つ
ユヌス氏がかねてから提唱しているソーシャルビジネス向け株式市場についての言及もあり、やはりまだまだ一般の認知の低いこのコンセプトを多くの人に知ってもらうための一番のセールスパーソンは、今のところこの人をおいていないな、という思いを新たにしました。

自身が考える社会株式市場のあるべき姿について中々詳細は語らないユヌス氏ですが(彼を直接知る人たちによると、彼自身も大きなビジョンはあるがそれをどうすれば実現できるかという具体的なアイデアはまだ詳しく語れるほど固まっていないのではないかという話です)、
100万ドル出資したら、10年後でも同じ100万ドルが戻ってくる
社会目的の多くの慈善団体や政府機関がある。こうしたチャリティーのお金は通常、戻ってくることはないが、持続可能なソーシャルビジネスへの出資なら資金のリサイクルが可能だ
これらの発言は、私たちが現在ブラジルのBM&F BOVESPA(サンパウロ証券取引所)のために草案を作成中の社会株式市場(厳密には、「株式」ではなく、より「債券」に近い資本市場を提案する方向で考えています)のデザインの基本思想と合致していて、意を強くしました。

ただ、微妙に考え方が違うのかなと思うのが、
人間は本来、利己的な部分と『無私』の部分を併せ持つ多面的な生き物だ。ただ、これまで『無私』が経済に組み込まれることはなかった。私の提案はこの『無私』に基づいたビジネスを創造し、資本主義に取り入れることでゆがみを正し、完成形を造り上げようというものだ
という部分。一見すると私がこのブログを始めた時に書いたこととも近いように思われるかもしれませんが、「他人に何かできるという喜びや満足感」、「他人を変えていくうれしさ」、「人の役に立ちたいという思い」、これらを「無私」(selfless)という言葉で捉えてしまうことには、私はどうしても違和感を感じます。

言葉尻の問題と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、こうした活動の原動力を、崇高な無私の精神と捉えるか、人間が自然に持つ欲求(例えばマズローの言う集団帰属、自己承認、自己実現といった欲求)の一種と捉えるかによって、それらを促進するための方策や制度の設計も根本的に異なってくると考えています。(この点、ビル・ゲイツの「創造的資本主義」のビジョンの方が、私はより共感できます。)

無私の精神とは、外部から与えられるインセンティブの多寡に反応するものではありません。無私の精神を行動原理とする人は、極めて希少だからこそ、尊敬に値します。そういう人たちが世の中にいないわけではないですし、また私たち一人ひとりの心の中にそのような部分が存在しないわけでもないですが、どうすればそうした無私の精神を現状よりも促進・拡大することができるでしょうか?

考えられるのは、道徳教育だとか、ロールモデルだとか、メディアを活用した啓蒙とかいったところではないでしょうか。それらが全く無意味だとは思いません。ただ、これまで人類の長い歴史の中でそうした努力は常に行われてきたのに、無私の精神が人間社会の支配的原理になることはありませんでした。それなのに、こうした取り組みの延長線上に、今後何か世界を変えるほどのインパクトを生む可能性があるとは、私には到底信じることができません。

ユヌス氏は私も最も尊敬する人物の一人ですが、私の知る限り、彼自身人並みはずれた自己顕示欲や自己実現欲の持ち主で、決して無私の人ではありません。「それにもかかわらず」私は彼を尊敬するのではなく、そうした強い欲求を持っている人「だからこそ」、それらの欲求を社会の発展にふりむけて極めて効果的に使っているからこそ、尊敬するのです。彼がいつも挙げるダノンやアディダスなどのソーシャルビジネスの例も無私の心で行ってるわけではないでしょう。

ユヌス氏や他の成功している社会起業家を、無私の聖人君子と捉えてしまうと、ほとんどの人にとって彼らの行蹟は尊崇の対象にとどまり、後に続くなんて「自分には無理」ということになりかねません。

ユヌス氏のような人たちがどのような欲求を持ち、どのようなインセンティブに反応しているのか、どういう弱点や盲点に陥りがちで、それを回避するにはどのようなサポートが必要なのか、そうしたことを深く掘り下げて理解して初めて、彼らのような人材を拡大再生産することが可能になります

希少にしか存在しない無私の偉人がビジネスを起こすことに頼っていては、根っこのところで世界は変わりません。本当の変化は、人の痛みが分かり、事象の本質を見る目を持ち、目立ちたがりでええかっこしいな、そんな普通の人が動く時に起こります。普通の人が持つ金銭的・物質的欲求を全否定するのではなく、うまくバランスさせながら、それ以外のより向社会的な欲求を刺激し、社会的価値の創出に振り向け、充足し、促進する環境や仕組みをつくることができれば、世界は変わりはじめる。そう考えて今後もどんどん動いて仕掛けていきます。(で、まずはBM&F BOVESPAのためのレポートを仕上げないと。。)

14 件のコメント:

  1. 実はわたしも「無私」とその周辺に突っ込んだ記事を自分のブログに書こうと思っていました。
    が、『貧困のない世界を創る』を一度眺めてからと思っているもので、まだ果たせていません。
    先に片付けねばならない仕事があるもので。
    (「定額給付金」記事にもコメントを書こうと思っているのですが)
    cloudgraberさんとは、無私の取り扱い方に若干の違いはありそうですが、同意するところが多いです。
    ソーシャル・アントレプレナーは「ヒーロー」でもいいですが(個人的には本当は、ヒーローだとすら思いませんが)、「アイドル」にしては多くの弊害が生じると考えています。

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  2. 「多くの」は表現が不適切、書きすぎでした。
    また、すべてのソーシャル・アントレプレナーをヒーローではないと思っているわけではありません。
    精神的に疲れ気味なのか、筆がすべりがちになってるようです。すみませんでした。

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  3. > K.A.Luckyさん

    いえいえ、お気になさらず。お忙しい中コメントいただきありがとうございます。

    因みに、よかったら(お時間のある時で構わないので)教えていただきたいのですが、K.A.Luckyさんのおっしゃる「ヒーロー」と「アイドル」、そして「ヒーローであるソーシャル・アントレプレナー」と「ヒーローではないソーシャル・アントレプレナー」って違いは何でしょうか?

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  4. 僕たちは聖者である必要はない。
    「金が欲しい」「名声が欲しい」「人から褒められたい」そんな「強欲な」人間でいい。
    その欲を、誰かの為に転換できるのなら。

    最近は、僕もそう思うようになってきてます。

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  5. 同感です!
    クリアに表現できるcloudgrabberさん、素敵ですね。今度引用させてください。

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  6. あまがえる2009年5月7日 9:09

    共感です。
    Greedを上手くコントロールできると良いですね。wall streetの様にはなって欲しくないです。

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  7. 起業等に詳しくない私ですが、cloudgrabberさんのブログは、ビジネスマンのメンタリティというものを学び取る上で非常に勉強になります。

    人の社会的欲求を引き出すには人の私的欲求を満たしてやることが大事で、人の善意ばかりに目を行かせるのではなく、普通の人は私的欲求をうまく満たしてやることで社会的欲求も発揮できるようになっていくよ。ということですね。非常に納得が行きます。

    ただ、人の社会的な欲求には個人差というのが非常に大きいですよね。
    中にはどれだけ余裕があっても「他人のために金と労力なんか費やしてたまるか」くらいの方もいらっしゃいます。どれだけ私的欲求を満たすことが余裕と、社会的欲求精神につながるかは本当に個人差がありますし、その理由も遺伝であったり、家庭環境であったり、いろいろだと思います。そういう意味では、善人の起業とかいう具体性のないものに過度に期待してしまう気持ちもわかる気がします。

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  8. > tonyさん

    「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」‐高校時代の日本史の時間にこの言葉をきいたときは、よく理解できず「はぁーっ?」ってな感じでしたけど、この年になって何となく腑に落ちるようになって来ました。

    > ミミーさん

    ありがとうございます!大した文章でもないのに、自分の考えを理解してもらえるよう表現しようとすると、これでなかなか時間がかかるんですよね。ミミーさんの琴線に少しでも触れることができればうれしいです。

    > あまがえるさん

    そういえば、オリバー・ストーンの「ウォール街」の続編が製作されるそうですね。ゴードン・ゲッコーが帰ってくる。。

    > takuさん

    「普通の人は私的欲求をうまく満たしてやることで社会的欲求も発揮できるようになっていくよ」というのはちょっと違うかも。敢えてまとめようとするなら、「向社会的欲求も私的欲求の一種で、否定しようとしたって人間の一般的な性というものは変えることはできない。それより、その欲求をうまく惹き出して有効活用できる仕組みを考えななくては、本当の進歩はない」ということでしょうか。

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  9. ぼちぼち復活しないと、ということで、「ヒーロー」と「アイドル」について書いてみます。
    「ヒーロー」とは「何か目覚ましい(と認識する人がいるような)実績を達成した人」かつ「そのことを少なくない人が認め、称賛の対象となっている人」の意で書きました。
    何かを達成していてもそれが知られていないが故に称賛の対象となっていない人が、社会的に「ヒーロー」とされないのは当然ですが、活動が目覚ましくもないのに称賛される「ヒーロー」も微妙だ、というのが、わたしの考えです。
    一方「アイドル」は「偶像」の意で用いました。「ヒーロー」的な存在の人が一旦偶像化され、その行動が全肯定されることの弊害を、言いたかったのです。
    思考と表現の洗練が進んでいない、まだまだ思いつきに近い発想なのですが、現状のこの周辺に関する問題意識として、強く持っているのです。

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  10. > K.A.Luckyさん

    そうですね。K.A.Luckyさんが「(と認識する人がいるような)」と書かれている通り、ある活動や実績が「目覚しい」とするに足るかどうかは、認識する側の基準によります。だから、「oo村のヒーロー」とか、「xx業界のヒーロー」というレベル感の異なるヒーローがいるのは当然です。

    ただ、いつの世でもヒーローとは、あるコミュニティにおいて「称賛されるべき」とされる価値を、コミュニティのメンバーに分かりやすい形で体現し、その価値を増幅・拡散するための装置としての役割を担うものだと思います。

    日本の社会起業家の場合、「優れた」社会起業家とは何か、称賛され拡散されるべき資質や特性とは何か、ということについて、当事者たち(社会起業家や、その協働者、支援者、そして何より受益者/顧客)の間である程度の共通認識が生まれるより早く、メディアの価値観によってヒーローが造り上げられてしまっていることに危惧を覚えています。

    何が是で、何が非か、そういう議論や共通認識の醸成をすっとばして、人為的にヒーローを造っていくと、終いには「とにかくみんながヒーローと言っているからヒーローなんだ」ということになってしまい、盲目的な尊崇の対象となる「偶像」がうまれてしまいます。

    昨今、パブリシティに過度に依存して、とにかく社会起業家という概念を広めることにだけ躍起になっている人たちも、一部にいるように見受けられます。あれで真に「社会起業家」的な価値がちゃんと拡散されるのか、大いに疑問に思います。

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  11. ヒーローの機能が、価値観の増幅・拡散にあるとの指摘、その通りと思います。だからこそ、すべての「ヒーロー」(とされる者)を、全否定することはできない(するべきではない)、と。

    また、わたしも何者かの価値観によってヒーローが作り上げられているとの危惧意識は持っています。「何者か」と表現したのは、cloudgrabberさんのいうメディアそのものというよりも、その背後の「意」の存在を看過するべきではないと思うからです。
    特にその「意」の核が、誰かの、ソーシャル・イノベーション(←受益者が広い)の創出に直接関係のない利得にかかわるものの場合、わたしはそれを良しとは思いません。
    それこそそれが、社会起業家概念の流布であっても。
    社会起業家(というべき人物)はその概念ができる前から存在していたと思うし、その概念が広まることが直接ソーシャル・イノベーションの多発と加速に資するとは思わないので(むしろそれを騙る者の増加につながることとその弊害を危惧します)。

    日本社会はヒーローを偶像化しやすい社会だし(偶像になり損ねると、今度は糞味噌に叩かれる面もあり(←これもメディアが率先(叩く場合には必ずしも意は不要。大衆は生贄を求めるものだから)、それもまた不健全で幼稚)。さらに脱線しますが、ヒーローが全人格的に優れている必要はそもそもないのに、なぜ優れていることになっちゃうんでしょうね。

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  12. > K.A.Luckyさん

    メディアの「背後の「意」の存在」とは、なんだか穏やかならぬ雰囲気が。。これは政治権力とか既得権益とか、メディアの商品にお金を出す商業資本とか、そういったことですか?それとも、メディアがニーズを満たさなくてはならない消費者ということでしょうか?

    因みに、私が「メディアの価値観」といった際には、メディアで働く人が意図的に情報操作をしようとしているとかよりは、彼らの行動を大幅に規定している「消費者のニーズ」の方を念頭に置いていました。気軽に消費できる楽しく刺激的なストーリーを求める消費者の論理や、それに合わせるメディアの論理からは、「優れた」社会起業家とは何か、称賛され拡散されるべき資質や特性とは何かについて、本質的な議論や共通認識は生まれて来づらいと考えています。

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  13. >cloudgrabberさん
    商業資本全部を批判するつもりはありません。
    また権力とか陰謀論を云々するほどは病んでいないつもりです。これも全否定してはまずいとは思いますが。
    メディアのコンテンツは、それにかかわるヒトによって実際は案外容易にコントロールできるらしいと確信しています。コンテンツを作っているのも、それらの中から何をどのように流すかを決めているのも、つまるところ個人でありますし。すなわちコンテンツによって個人的な利得(ここでいう利得は直截的な経済的メリットに限りません)を追及している例があるのではないかと。
    卑近な表現をすると、誰かをヒーローにすることでなんらかの「おこぼれ」を得ることを期待し、コンテンツを操作するヒト/集団があるのではないか。それがこの領域をスポイルするのではないか、と考えているのです。
    もちろん操作後のコンテンツが「消費者のニーズ」に真っ向から対立する物であっては、社会に受け入れられないでしょうから、この段階でもさらに別の歪みが発生する恐れがあると。

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  14. > K.A.Luckyさん

    「メディアのコンテンツは、それにかかわるヒトによって実際は案外容易にコントロールできる」というのは、取材された側の人たちの話を聞くと、相当深刻らしいですね。それを分かった上でメディアに接すればいいのでしょうけれども。。

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