2007年9月28日金曜日

ブリ・ガウナの夢

フィジー共和国の東部に、ラウ諸島と呼ばれる57の小さな島々がある。フィジー国内では、ラウ地方の人は「向上心が強く、勤勉」との定評があるのだが、フィジー赤十字社の災害担当主任(2002年当時)のブリ・ガウナも、ラウ出身者としてこの評判に恥じない一人だ。

彼が生まれ育った辺境ともいえる島に、当時降り立つ航空便は無く、たまに遥か上空を通り過ぎていくだけの飛行機を見上げながら、幼いブリ少年は「いつの日か、あれに乗って世界を見るんだ」と心に誓った。「もちろん、今回が初めてというわけじゃないけど、それでもまだ飛行機に乗るときは、あの頃を思い出しながら心が弾む」と、2001年10月にスイスで開かれた国際赤十字の災害対策研修ワークショップに向かう機内で、24歳になる彼は、すこし照れくさそうに、私に語った。

彼がフィジー赤十字社で働き始めた当初は、ボランティアとして、青少年活動の手伝いをするうちに、その精力的な仕事振りがスタッフや仲間たちからの信頼を得て、職員として採用された。フィジー赤十字社の啓蒙活動の重要な一環である人形劇チームのリーダーとしてしばらく活躍した後、几帳面さと行動力の両方が求められる倉庫管理担当係として、3年近くジョン・スコット前事務総長の信任に応えた。

彼が心から尊敬していたジョン・スコット氏が、不慮の死をとげたのは2001年の夏のことだ。2000年のクーデターという未曾有の危機を、事務総長の指導力により団結して乗り切ったフィジー赤十字社にとって、この上無く悲しむべき出来事だった。ジョン・スコット氏の右腕として信頼の厚かったマレタ・トバタ女史が、事務総長臨時代行として、大きく動揺する社の舵取りに必死であたっていた10月、災害対策研修ワークショップへの参加も一つの契機となって、ブリは災害担当主任に昇進した。

スイスでの最後の夕食の後、「ここに来て、大洋州の赤十字社で僕たちがやっている仕事を取り巻く、もっと大きな文脈というものを垣間見ることができた」と、ブリはやや興奮した口調で語り始めた。「これまでは、君がやって来て、報告書だの、計画だのと仕事の話をすると、正直言ってわずらわしく思うこともあった。でも、君が仕事で僕に接する態度には、現在の環境や、やっていることに安住せず、目標を高く持て、というメッセージが常に隠されていたことが今になって分かった」と、ブリは私に言った。そんな大層なことは考えたこともない私は、笑ってごまかした。

ジュネーブの赤十字記念館に展示されていた、国際赤十字運動に贈られたノーベル平和賞のメダルの前で、満面に誇らしげな笑みを浮かべながら記念撮影をした彼だが、将来の話になると、「これから先、赤十字にずっと携わって行くということはないと思う」と言う。じゃあ、他に何をしたいんだい、との私の問いに、彼は、「幼い頃からの憧れは軍人だ。軍に入ってもっと広い世界を見たい」と、答えた。「僕の祖父は英国軍人として、ガダルカナルの戦闘で英雄になった。このあいだソロモン諸島に行った時、日本から来た君が、今も残っている日本軍の監視台を眺めているのを見て、何とも言えない感慨に襲われた」と目を輝かせて語るブリに、私はぼそりと、中国には「良鉄は釘にならず。良人は兵にならず」という言葉があるよ、と水を差してみる。

すると、彼はしばらく考えるような顔をしてから、「どうだろう、それは本当かもしれないし、そうではないかもしれない。でも、フィジーでは、軍隊は国際的に一流のキャリアを積める可能性がある数少ない就職先の一つであることは確かだ」と、答えた。オーケー、で、国際的なキャリアを積んでからどうしたいんだい?世界中を渡り歩く生活と言うのは、傍目で見るほど楽しいものでもないと思うけど、と私。スイスでの食事にタロ芋が出てこないことを嘆くこのラウ出身の青年は、ついさっき、赤十字に一生を 捧げたいとは思わない、と話したことなど忘れたかのように、「もちろんフィジーに戻ってくるさ。そして、フィジー赤十字社の事務総長になりたい」と、真顔で言い放った。

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