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2008年2月23日土曜日

びっくり

前回のKivaに関するエントリーが、なんと当のTactical Philanthropyで取り上げられました。

とは言っても、私の書いた内容についてではなく、ブログが国境を越えて迅速にアイデアを伝播する力についてという趣旨でですが。日本語のエントリーだったので、何が書かれているかSean Stannard-Stockton氏には理解不能ですから。

元々このブログを昨年始めた時には、大まかに日本語と英語のエントリーを半々くらいで書くつもりでした。最近ちょっとなまけて日本語ばかりになっていて、「そろそろ久しぶりに英語でも書かないと」と思っていたのですが、かえって日本語で書いていることによってこんな楽しいサプライズがあるとは。世の中面白いもんです。

2008年2月4日月曜日

偽善考 - その4

あるCSRの活動を、そこに利己的な打算が働いているからといって、偽善であると単純に切って捨てるのは、あまり意味がないと思います。そもそも狭義の自社利益と広義の自社利益(≒公共利益)をバランスさせるのがCSRであって、完全に利他的なCSRなど持続不可能です。しかし、企業のような巨大なリソース(ヒト、モノ、カネ、情報)を持つ主体の取る行動は、結果や手続きの観点から、より適切なやり方はないのかが吟味されなくてはなりません。

公共の利益を旗に掲げて大きなリソースを振り向けるからには、そのリソースが完全に私的な性格のものであったとしても、行動の結果や手続きの妥当性については公的な責任を伴います。これはCSRに限らず、NPO/NGOやゲイツ財団のような私的財団、さらには1997年に10億ドルを国連に寄付したテッド・ターナーのような個人についても当てはまる問題です。

ソーシャル・セクターでも最近は、効果・効率に関する結果の議論は盛んになっていますが、手続きに関しては「リソース提供者への説明責任」はより強調される一方で、その行動の対象となる「受益者への説明責任」の方はやや疎かにされているという印象を受けます。一昨年になりますが、The Economistのフィランソロピーの新しい潮流に関する特集記事を執筆したMatthew Bishop氏がインタビューで、"How do these (very wealthy) people dare to impose their view of what a better world is on the rest of us?"という正統性 (legitimacy)の問題を指摘していた事が思い出されます。

さて、これまで4回にわたり長々と偽善に関する考察を書き綴ってきましたが、私の目的は誰かの行動を「偽善である」と糾弾して止めさせることではありません。逆に、視野の狭い私利私欲の追求を礼賛するつもりもありません。

第1回のエントリーへのコメントでみやさんが書いていらっしゃったように、一つの行為やその結果に対しても人によって受け止め方が異なる以上、万人が同意するような普遍的な善など無いのではないかと思います。しかし例え「人が為す善は須く偽善」だとしても、公共善や公共の利益、あるいは社会貢献といった言葉を口にする者は、自分の行いがどのようにすれば一歩でもより善に近づけるのか、常に冷徹かつ謹厳に考え行動に移していかなければなりません。

  • 行動の意図は必要十分に広い視野に基づいているか
  • 行動が効果的かつ効率的に結果に結びついているか
  • 行動の過程には説明責任が担保されており、異なる視点や価値観に開かれたものになっているか

これらの点が全て完璧になることはありえないにしても、より高いレベルでのバランスを達成するために弛まぬ努力が必要なのです。

自分たちの行為が善であることを自明のことと考えてしまうと、中野好夫が『悪人礼賛』で「精神的奇形 (moron)」とこきおろした、脳天気で無軌道で無責任な「善意の善人」になってしまう危険性があります。

それを避けるためには、「善ならざるものとは何か」について掘り下げて考えてみる必要があると思い、愚見を今回このような形でまとめてみました。稚拙な長文にもかかわらず、最後までお付き合い頂きありがとうございます。

2008年2月3日日曜日

偽善考 - その3

これまで、行動の意図を以って善と偽善を分けるのが難しいことを見てきましたが、そもそも善と偽善を分けることには、どんな意味があるのでしょうか。「偽善」という概念の使い道を考えてみると、大きく二つあります。

  • 世間一般には善だと認識されている他者の行動を批判するためのレッテル
  • 自ら善だと信じて行っている行動を省察するための反面教師

善か悪かの判断は、立場や視点、イデオロギーの違いによりますが、白黒はっきりした対立的な性質のものです。それに対して、善か偽善かはグレーゾーンでの判断で、「この行動は本当に善と言ってよいのか、より白に近い善があるのではないか」と警鐘を鳴らす、建設的な可能性を持っています。

だとすると、「人が為す善は須く偽善」とだけ言ってすませ、善と偽善の差異を曖昧なままにしておいては、考察が不十分だということに気づきます。

従来の一般的な「偽善」の定義では、行動の意図が重視されているが、これは善と偽善を分ける軸としてあまり有効でないという私の意見はすでに述べました。それならば、「偽善」の概念が持つ建設的なポテンシャルを活かすために、他のどのような軸を持ってくる必要があるのかを考えなくてはなりません。

私は、より有効な偽善の定義のためには、以下の二つについて着目する必要があると考えます。

  1. 行動の結果: 「善意が敷き詰められた道は地獄に通じている (The road to Hell is paved with good intentions)」と言われるように、善意からの行動がかえって問題を悪化させるという事態は、実際によくあることです。悪化させるには至らなくても、行動が非効果的、非効率的で所期の結果に結びつかないと、善なる行動としての正当性を失い、これが偽善と呼ばれることもあります。例えば、物乞いに小銭を与える行為や、街頭で寄付箱に小銭を入れる行為を見て偽善であるとする人たちは、効果や効率のことを問題にしています。ここで「偽善」という言葉が指しているのは、行動と結果の間の断絶のことになります。
  2. 行動の過程: 目的(意図)は手段を正当化しません。同様に、結果が過程を正当化することもできません。ある行動が善であるためには、意図と結果だけでなく、その過程も重要であると私は考えます。特にここで私が重視するのは、説明責任(accountability)の問題です。ある行動を取る際には、どうしてその行動が適当と考えられるのか、他にどのような選択肢が検討されたのか、その決定には誰の意見が反映されているのか、実際に結果が善いものであるかどうかを判断するのは誰か、といった点を考える必要があります。善意から発して、善い結果を例え生み出していたとしても、手続き上の正当性が欠けている場合には、これもまた「偽善」と呼ばれて如かるべきです。

最もよく使われる、利己的な意図によるという意味での「偽善」と区別するとしたら、1の意味での偽善は「非善」、2の意味での偽善は「独善」または「虚善」とでも言い換えてもいいかもしれません。

2008年2月2日土曜日

偽善考 - その2

企業の場合にも、「我が社の利益」というものを考える時に、その視野をどこまで広げるかには、様々な幅がありえます。

  • タイムスパン: 短期 vs 中期 vs 長期 vs 超長期
  • ステークホルダー: 株主、経営者、従業員、顧客、取引先などのビジネスパートナー、業界、地域コミュニティ、自国、国際社会
  • 利益の種類: 直接的利益 and/or 間接的利益、経済的利益 and/or 社会的利益、機能的利益 and/or 感情的利益
これらの三つの変数について、どこまでを考慮に入れて自社の利益を図るかによって、取るべき行動は変わってきます。

ただ、どこまで行ってもその本来の意図は自己利益の増大であることには、何ら根本的な違いはありません。

例えば、超長期的に国際社会の社会的利益を増大することを意図した企業行動は善で、中期的に地域コミュニティの経済的利益と感情的利益に資することを意図した行動は偽善であるなどと言う事は、誰にもできないのです。

2008年2月1日金曜日

偽善考 - その1

偽善とは何だろうか。2週間ほど前のThe EconomistのCSRに関する特集記事を読んでいて、そんなことを考えました。

偽善とは読んで字の如く「偽りの善」ですから、通常の解釈ではつまるところ、うわべは善い行いをしていても、その底には利己的な意図が働いていることだということになるでしょう。

ここでは、利他的な意図は善と深く結び付けられる一方、表にあらわれる行動がどうあれ利己的な意図は善ならざるものという価値判断が、前提になっています。「善とは何か」という問いに対しては、太古から優れた思想家が色んなことを言っていますが、要するに何らかの道徳的・倫理的規範に沿った行いのことです。してみると、そうした規範を顧みることなく、自らの気の向くままやりたい放題のことをやっていては、当然「善」を実現することはできないということになるでしょう。

ただ、本当に利他的意図は、利己的意図とは相容れない全く反対の概念なのでしょうか。

The Economistの記事ではCSRについて、結局それは「enlightened self-interest」に基づいた企業行動のことだと結論しています。私も、利他的意図と利己的意図は対極の関係にあるのではなく、「自己」というものを理解する際にその包含する範囲を少しずつ広げていったグラデーションの差でしかないと考えています。「自己」の概念が、生物学的自己から始まって、家族、共同体、民族、国家、人種、人類、未来の人類、地球上の生物というように広がっていく時に、狭小な「自己利益 (self-interest)」は、空間や時間の壁を越えた「視野の広い自己利益 (enlightened self-interest)」へと移行していくのだと思います。

このように考えると、「真の善」と(利己的な意図によるという意味での)「偽りの善」も連続した関係にあり、必ずしも一方は賞賛されるべきで他方は非難されるべきということではない気がしてきます。

「為さぬ善より為す偽善」という言葉があります。よく見てみると、「偽」という漢字は「人」が「為す」と書くことに気づきます。極論すれば「人が為す善は須く偽善」とさえ言えそうです。

2008年1月4日金曜日

政治家が尊敬されない日本

"米「尊敬する人物」調査、女性はヒラリー氏が6年連続首位"という日経の記事に目が留まりました。下記が、米紙USAトゥデーとギャラップ社が最近発表した米国民の尊敬する人物に関する世論調査の結果。

女性
1位 ヒラリー・クリントン上院議員 (18%)
2位 オプラ・ウィンフリー (16%)
3位 コンドリーザ・ライス国務長官 (5%)

男性 
1位 ジョージ・ブッシュ大統領 (10%)
2位 ビル・クリントン前大統領 (8%)
3位 アル・ゴア前副大統領 (6%)

これは、"What woman/man that you have heard or read about, living today in any part of the world do you admire most?"というオープン・クエスチョンに対する回答を集計したものです。わざわざ"in any part of the world"と、世界中の人物を対象とする質問をしているのに、それでも国外の人物が上位に全く入らないのは、アメリカ人の内向きというか自国中心的な世界観がここにもあらわれていると言って良いのではないでしょうか。

それより私が感心したのは、女性の2位の人気トークショーの司会であるオプラ以外は、上位が見事に政治家で占められていること。これは、日本ではまずありえないんじゃないでしょうか。多分、アスリートや芸能人、文化人で占められ、政治家はほとんど名前が挙がらなそうな気がします。

この違いは果たしてどこから来るのでしょうか?単純に考えると、三つの可能性がありそうです。

A. 日本の政界には国民から尊敬されるような優れた人材が集まらない
B. 優れた人材が入ってきても、日本の政界では国民から尊敬されるに値するような活躍ができない
C. そもそも、政治家を尊敬するという文化・精神風土が日本にはない

「政治家の質は、国民の質である」とはよくいわれることです。それはその通りなのでしょうが、ただ日本の政治家とアメリカを含む諸外国の政治家を見ていると、「国民の質」だけでは説明できないほど大きな差がある気がします。例えば、今回の米大統領選に名乗りをあげている、民主党のクリントン、オバマ、エドワーズ、共和党のマケイン、ジュリアーニ、ハッカビー、ロムニーといった面々を見ていると、それぞれ考え方やスタイルは異なれど、優れた見識と魅力を持った人たちばかりだと思います。こう言っては何ですが、日本の政治家とは雲泥の差。この中から自分たちの国をリードする大統領を選べるアメリカ人が羨ましくなるほどです。

「国民の質」の議論から一歩踏み出して、状況を改善できる現実的な方策を取ろうとすると、上記の三つの問題の可能性についてそれぞれ考察してみることが有用だと思います。Aが根本原因となっているのであれば、問題は最も深刻で、リーダーシップ教育や、社会の人材配分とインセンティブ構造を見直さなければなりません。一方、Bの場合は、現在の政治システムや政策決定メカニズムの有効性を再検証しなくてはなりませんし、メディアの扱いについても考えなおしてみる必要があるのではないでしょうか。Cの問題は、(日本の政治家には少々気の毒ですけど)それほど心配することはないと思いますが、Aの問題を助長しますので、まず国民が政治家という職業にもっと敬意を払うことから始めるというのも一つの手かもしれません。

2007年12月14日金曜日

マイクロファイナンスの現実

"Botswana and Zambia: Counting on Microfinance"も、ビジネスウィークから。ボツワナおよびザンビアでのマイクロファイナンスの現状に関する、ナレーションつきスライドショー。

ここでも紹介されているBlueは、サラリー・ベースド・レンディングというマイクロファイナンスの手法で大きくなりました。給料天引きで貸したお金を回収する仕組みになっているため、貸し倒れ率を低く抑えています。しかし一方で、低所得層を食い物にしている現代の奴隷制度だとして批判する声もあります。

グラミンバンクをはじめとする、伝統的なマイクロファイナンスは、担保とする資産を持たない貧困層に、隣組のような少人数の借り手同士のグループを作らせ、そのグループに融資を行います。彼らのコミュニティ内の「信用」・「体面」を担保とすることで、貸し倒れ率を抑えるという手法です。

しかし、これが通用するのは主に農村部などの、密接なコミュニティが存在する社会においてであり、都市部のスラムなどでは違った戦術が必要になってきます。給料天引きという手法もそういう文脈で登場したのでしょう。

日本の消費者金融と一緒で、顧客のニーズに応え役に立つビジネスをしているのですから、それ自体が高尚だとか非道だとかいうことは言えません。問題はその運用であり、顧客が満足するサービスを提供し、彼らを味方にしてしまうことが、長期的に見ればより有効な企業戦略になるということに気づいて実践することができるかどうかです。

ナイジェリアと石油

"Nigeria: Creating Wealth Out of Chaos"は、ビジネスウィークのナレーションつきスライドショー。こちらはナイジェリアについて。

そう言えば、愛読する踏み上げ太郎さんのブログでも、アフリカで投資対象として最も注目しているのは南アフリカとナイジェリアと書かれていました。確かにナイジェリアの石油資源は大きな可能性を秘めていますが、これが強みになるか(これまで通り)呪縛になるか。

この数年間で中国は、資源確保のためアフリカに大々的に投資をしています。それを見て焦った欧米も、これまでより政治要求(ガバナンス、人権)と経済協力のリンクを緩めており、アフリカへの外資流入が進んでいます。

ただもちろん、これらはほとんど全て資源目当て。コモディティ(ナイジェリアの場合は特に石油)の価格が上がり続ける、または高値維持というシナリオでなら良いですが、もしそのシナリオが崩れれば、猛烈な勢いで海外資本の引き揚げが起こるでしょう。

今入って来ているお金を、国としてどう使うか。ガバナンスと治安の確保に加え、経済のボトムアップが不可欠です。起業家や社会起業家たちの活躍の場を広げ、インフォーマルエコノミーを育成・活性化しなくては、今のブームもあっという間に過ぎ去って、元の木阿弥になりかねません。

マラウィが食糧不足から脱却できたワケ

長い間飢餓に苦しんで来たマラウィ。しかし、New York Timesの"Ending Famine, Simply by Ignoring the Experts"は、今年は豊作で、食糧輸出に転じており、ユニセフの救援用備蓄食糧もいらなくなって他国に移転されるほどだと報じています。豊富で安価な食糧は、社会の発展に極めて有益です。

理由は単なる好天候だけではなかったようです。80-90年代に世銀の単純な自由市場主義的な提言にしたがって採ってきた政策を覆し、政府による肥料の補助金制度を導入したのが奏功したのです。世銀自身が最近の調査で認めた形になりました。

環境至上の立場からすると、化学肥料の使用に対して異議もあるかもしれませんが、人が餓えている状況を解決するのがまず先決。

最近の社会起業家への関心の高まりは、とても良いことだと考えています。ただ、それと時を同じくして、市場原理を徹底させれば世界の全ての問題が解決するかのようなナイーブな論調も目に付きます。そこでは、これまで政府や非営利組織が扱ってきた分野に、「優れた」市場原理を持ち込む尖兵のような扱いで、社会起業家が語られます。

マラウィの成功はそうした幻想への反証ともいえます。

市場と政府と市民社会はそれぞれ異なる強みを持ち、互いに補完しあわなくてはなりません。社会起業家の役割は、その補完関係に穴が空いているところを見つけて、ほころびを縫い合わせてあげること。

市場の効率とスケーラビリティ、政府の正統性と強制力、市民社会の公正性と開放性。これらの利点を縦横無尽に活用できる柔軟さとしたたかさがないと、前進はありません。

山師がアフリカを救う?

ビジネスウィークの"Can Greed Save Africa?: Fearless investing is succeeding where aid often hasn't"は、ビジネスチャンスを嗅ぎつけて、アフリカに群がる起業家と投資家たちについての記事です。

「山師」だとか「群がる」だとか、あまり響きの良くない言葉を使いましたが、その実バリバリのビジネスエリートたちです。

彼らがやってるビジネスの着眼点の多くは、C.K.プラハラードが言うBOP (the Bottom of the Pyramid)のアプローチに通じます。

こういう大きなリスクを取りに行けるリソースとスキルを持ったアントレプレナーの存在は、経済の活性化に極めて重要な役割を果たします。

利益目的、大いに結構。サステナビリティの無い一攫千金で、長期的な視点で見れば社会に迷惑かけただけということにならない限りは。

2007年12月12日水曜日

ドル・キャリー

wha_man3さんがブログで、アメリカの「住宅不況の深刻化→徹底した利下げ→ゼロ金利→ドル・キャリーの発生→基軸通貨の際限ない垂れ流し」というシナリオの可能性を論じています。

ドルのキャリー・トレードが蔓延して、基軸通貨国が際限なく紙幣を刷り始めるなんてことになったらどうなってしまうのか…確かに、ちょっと想像し難いですね。 ただはっきりしてるのは、サステナブルではないということ。今のドルを基軸通貨とした国際通貨体制に、どうしても何か抜本的な手を打たなきゃならないってことになる時が近づきつつあるように思います。

最近のFinancial Timesの論説は、SDR(IMFの特別引出権)を緩衝材として活用することを提案しています。ただ、これもその有効性の源泉はというと、結局のところ通貨バスケットと…ゴールド。本当にその程度の小手先の対応で大丈夫なの?テラみたいなもう一歩つっこんだ選択肢も、少なくとも代替案の一つとして真剣に検討する必要が 、本当に出てきているんじゃないかな?

2007年12月7日金曜日

グローバル基準通貨・テラ

wha_man3さんのブログは欠かさずチェックしているのですが、"ゴールド、The Power of Goldの教えてくれたこと" は、金の価値についてでした。

確かに金本位制はアナクロとは思いますが、過剰ドルに依存して国際流動性を確保する現在の国際通貨体制も、持続可能性に大いに問題があるのではないでしょうか。

バーナード・リエターがドルに代わるグローバル基準通貨として提唱するTerraは、商品価格バスケット制通貨の一種ですが、これがなんともラジカルな設計になっています。みんなが「そうだと思えばそうなる」いかりの無い舟のようなゴールドやドルでなく、inherent valueを持つ一次産品のバスケットの価格に結びつけ、シニョレッジを無くすことによって、国際収支均衡機能およびインフレ防止機能が備わっている上に、デマラージ(マイナス金利)を組み込むことで、経済活動に長期的視点をビルトインすると謳われています。

画期的なアイデアのように聞こえますが、大きな欠陥を見落としているような気も。画に描いた餅にすぎないのか、または、そもそもこれでは、wha_man3さんの言う「成長通貨の供給という現代経済のエッセンス」に適応できないということなのか。もう少し考えてみないと。

2007年12月4日火曜日

ロールモデル

最近のフォーチュン誌の"The Power 25"という記事とその中でのビル・ゲイツの扱いに関連して、町田洋次さんのブログに「(フィランソロピーを刷新しようとする)ゲイツの挑戦が他の起業家にも広がるのかどうかまだわかりませんが、アメリカの企業社会は社会に向かい始めた」とのコメントがあります。

私は現在MBA留学でアメリカに滞在していますが、社会起業やフィランソロピーに関するビジネスパーソンの関心の高さには目を見張るものがあります。一昔前のように、既に成功したビジネスリーダーが余力でフィランソロピーにも関心を持つというのではなく、バリバリ現役のリーダーたちや、将来のリーダーの卵たちも、本気で(ビジネスと同じくらいの比重で)社会へのインパクトを考えている人たちが、日本と比較して圧倒的に多い。(ただし、経済的合理性とビジネスマインドが世の中の全ての問題を解決できるかのようなナイーブな幻想を持っている人が多く目に付くというのも、また事実ではありますが。)ロールモデルとしてのビル・ゲイツの役割はこれに大きく貢献しているのは確かでしょうね。

会社の枠組みを超えて、一人の人間として、ゲイツのようなビジョンと実行力、波及力を備えたロールモデルになりうる可能性を持つビジネスリーダーというと、日本では誰がいるのでしょうか?(ぱっと頭に浮かぶのは、孫正義や、渡邉美樹とか…?)

2007年12月3日月曜日

Reengineering money

Martin Wolf's column on Financial Times on November 27 2007 ("Why banking is an accident waiting to happen") analyzes the moral hazard of the banking sector and says; "They go round regulations, just as water flows round an obstruction." That's exactly what will happen even if higher capital requirements are introduced or scrutiny of big banks is intensified as proposed by him because of the way incentives are structured around the current fiat money system. This vicious circle and the economic and social instability it inflicts on the society will never end unless the root cause is addressed. What seems increasingly clear, to me, is that we should start earnestly considering alternatives to the current money system that necessitates privileged treatment of the banking industry as a public utility - in credit creation. Taking steps to promote local currencies based on mutual credit, which circulate in parallel with national currencies, and even to experiment with demurrage, as Bernard Lietaer has been advocating is worth more serious attention in order for our entire economic system to break the costly vicious cycle.

2007年9月26日水曜日

日本版の社会起業家育成モデル

『社会起業家』(PHP新書)の著者である町田洋次さんが、そのブログで、アメリカではフォーチュン誌の富豪ランキングの上位にのるようなニューリッチたちが「広く社会に投じて社会を変えることを始めてる」ことにコメントした上で、「日本にはこれがないので社会起業が進まない、真似しようにも真似ができない、別の突破口を見つけなくてはいけません。大口支援ができないなら小口支援なんでしょうか、それとも企業支援なのか、道はまだ見えませんが、自ずから形成されてくるでしょう。」と書かれています。

これについて、極めて未熟な私見としては、二つのモデルが考えられるのではないかと思います。

1. CSRの動きをうまく活用し、「社会起業家の育成への貢献度」、または「社会起業家を通じた社会変革への貢献度」といったものを、可視化・指標化し、ランキング公表をすることで、企業からの資金の流れを促進する

2. コミュニティ通貨によるノンプロフィット資本市場を形成し、social venture capitalまたはventure philanthropyと呼ばれるようなアプローチを飛躍的に進化させる

どちらもあるいは夢物語にきこえるかもしれません。でも、私自身「ノンプロフィットのパラダイムシフト」を可能にする「社会起業インフラの整備」をライフワークとして取り組んでいきたいと考えており、夢物語を具体的な現実に変換していくために奮闘中です。

実はあなたも大富豪

今日、愛読している踏み上げ太郎さんのブログで、"Chosen ones "という記事 を読んで思い出したんですけど、昨年の日経の記事になりますが、『世界の「富」、人口の2%が半分以上所有』というのがありました。

こんな記事を見ると、「自分は世界で上位何%くらいの富裕層に入るんだろう」と思われる方もいらっしゃるんじゃないでしょうか。そんな方にチェックしてみてもらいたいのが、グローバル・リッチ・リストです。(記事の国連調査は資産ベース、こちらは年収ベースという違いはありますが。)

どうですか?「思ったよりも自分はリッチなんだな」と思われたんじゃないでしょうか?世界の富の不均衡について考えて行動するなんて、ビル・ゲイツウォーレン・バフェットジョージ・ソロスといった大富豪たちにでも任せておけば良いなんて言わず、あなたも世界的にみたらものすごい経済力を持っているんだってことを自覚していただければ幸いです。