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2010年1月8日金曜日

掴雲流アラフォーの心得 十二箇条

いつの間にか37歳。年が明けて数えでは39歳と、不惑の一歩手前。

学生気分も完全に抜けきったと言えるのか定かでないのに(第一、半年前までまた学生やってましたし…)、私もいわゆるアラフォーの仲間入りをしていることに気付きました。(いまさら?)

同年代の人たちを一括りにしようとする世代論ってあまり好きじゃないけど、上とも下とも世代の差を意識せざるを得ないちょっと微妙な年齢になってきていることは、最近徐々に感じます。

まだまだ若いつもりだけど、自分が以前は「おじさん」と一括りに捉えていた年齢帯に突入しつつあります。そういえば、白髪も増え、しわも出てきて、体が無理をきいてくれなくなり始め。。

どう足掻いても歳には逆らえませんし、現実逃避しても何の役にも立たないので、開き直って「アラフォーにもなれば、こうありたい」という心得=自戒を、考えつくまま列挙してみました。
  1. 「最近の若いもんはよく分からない」とか言うべからず: 自分が同じことを言われていたのも、そんなに昔じゃない。よく分からないのは、分かろうとする努力が足りないから。若いもんから吸収できること、しなきゃいけないことはまだまだあるはず。
  2. 若いもんに媚びるべからず: アラフォーになるまで、真摯に経験と知見を積み、思索と省察を重ねて来ていれば、自分が学生の頃に考えていたことと今考えていることの間に距離が生まれているのは、極めて自然なこと。同様に、今の学生が考えていることとの間にも、距離があって当然で、そうでなければおかしいくらい。若いもんに「かっこいい」と思われたい気持ちも分かるけど、迎合するのはみっともない。今の自分に自信を持ち、かっこ悪く見えることも、退屈に聞こえることも、堂々と主張し、やり通そう。
  3. 目上は敬して之を遠ざけるべからず: 若い頃は、目上の人を必要以上に軽んじたり、うざったがったりしがち。経験の大切さを真に身に沁みては理解していなかったし、また年輩の人にどう接すれば良いのか今ひとつよく分からなかったから、それもある意味仕方なかった。でもアラフォーにもなれば、そんな言い訳は通用しない。彼らの経験の蓄積とそこから生まれる洞察に敬意を払い、積極的に学ばせてもらおう。
  4. 目上を「上から目線」で見る姿勢を持つべし: アラフォーたるもの、何も分からずに上に楯突いて無責任にえらそーな事言ったり、逆に上から言われたからとよく考えもせず従ったり、といったことはいい加減卒業しないとまずい。会社の重役であれ一国の大臣であれ、どんな目上の人に対しても、自分自身が当事者になったつもり、さらには彼らの上司にでもなったつもりくらいの意識を持って考え、建設的なアドバイスができるようになる必要がある。そうすることで、大局を見て必要に応じ優先順位をつけ、個別の正論に従うのではなく全体最適を図ることができるリーダーとしての素養を培おう。
  5. 愛する者を愛すべし: 若い頃は自己愛が偏って大きく、他を本当の意味で愛する余裕のない人が多い。家族でもいい。恋人でも友人でもペットでもいい。「神」や、世界中の生きとし生けるものと言うならそれでもいい。自分自身にしっかり愛情を注いであげるのも大事だけど、自分以外に心底から愛することができる対象がいるというのは、かけがえのない幸福。その愛情を伝え、育む努力を決して怠ってはいけない。
  6. 守りに入るべからず: 守るべきものがあるのは素晴らしいこと。だけど、守りに専念するにはあまりに早すぎる。これまでに築いてきた関係、信用などの資産を、守るだけでなく、動かし、組み替え、工夫して最大限に活用して、さらなる高みを目指そう。
  7. スタンスを取るべし: ケロッグでグループディスカッションをしていた時に、私が「Xじゃないかなと思うんだけど、でも皆がYと考えるのも分かるんだよね」みたいな発言をしたところ、すぐさま友人から「スタンスを取れ」とビシッと言われた。「議論を深め、グループとしてより良い結論に到達するために、異なった視点から(例え100%確信がないとしても)きっちり論理を展開して見せろ」ということ。自分の主張が合ってるか間違ってるか、採用されるかされないかよりも、その議論をすることが全体の結果の向上に役立つかどうかを、一番の基準とし、自分を捨て石にすることも厭わない。
  8. 敵をつくることを恐れるべからず: 不必要に敵をつくることは避けなくてはいけないけど、誰にでも好かれようとしていては、何事も成し遂げることはできない。凡そあらゆる変革には、得する人がいる一方で、損をする人もいる。本質を抉る発言であればあるほど、賛成する人も反対する人も多くなる。敵を味方に変える工夫はするが、しかし敵をつくることを恐れず腹を決め、主張すべきことは主張し、為すべきことを為そう。
  9. システムを動かすべし: 自分の力だけでは一人相撲。周囲の人の力を使っても、まだ狎れあいの域を出るのは難しい。若い頃はそれもいい。色々やってみてそこから学べばいい。ただ、対症療法でない本質的な持続的変革は、人の動静の根底にあるシステムを動かして初めて可能なことを、アラフォーにもなれば理解していなければならない。果敢という名の思考停止、挑戦という名の自己陶酔を脱却し、思考、行動、議論の全てを駆使してシステムを動かそう。
  10. 歴史に学ぶべし: 「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」。空虚な理念でなく、人間の現実を学ぶには、様々な社会の様々な歴史は最良の教科書。複雑な社会のダイナミクスを理解するのにも、この上なく貴重な「実験室」 を提供してくれる。目先のトレンドに振り回されていることに気付きもせず振り回されたり、せっかく歴史を紐解いたのに英雄崇拝に終始したりといったことは、アラサーまでで十分。現実を知らずして、現実を変えることなんてできない。歴史の深い教訓を学び、活かせるようになろう。
  11. バランスにしがみつくべからず: バランスは確かに重要。だけど、バランスをとること自体が究極の目的ではないことに、もう気付かなければならない。何でもかんでも「バランスが大事」という科白で片付けていたら、突き抜けることなんてできない。現状より高次のバランスに達するためには、今あるバランスも崩して前に進まなくては。人間は、直立している状態からバランスを崩して、初めて前に進むことができる。
  12. 「不惑」になるべからず: 孔子曰く、「四十而不惑」。でも、40といえばもうそろそろ一生の締めくくり方を考え始なければいけなかった孔子の時代と異なり、今のアラフォーはまさに人生これから。惑わなくては進歩は無い。前に進みつづけるために、大いに惑わずにはいられない状況にこれからも自分を置いていこう。
ちょっとレベル感ばらばらですが、細かいことはご容赦いただいて、以上十二箇条。他にも色々ありそうですが、とりあえず思いついた中で特に私が大事だなと思ったのはこのあたり。

同年代のアラフォーの方々の、「これも大事!」という心得がありましたら、教えてくださいね。

また、アラフォー未満の方々の「アラフォーにはこうあって欲しい」という要望、元アラフォーの方々の「あの頃の自分にこう言ってやりたい」という教訓も、是非お聞きしたいです。


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2010年1月3日日曜日

新年明けましておめでとうございます

謹賀新年


Clouds with silver linings

over Ssese Islands on Victoria Lake, Uganda

新年明けましておめでとうございます!

昨年6月に米ノースウエスタン大学ケロッグ経営大学院の経営学修士(MBA)課程を無事修了し、現在はウガンダに滞在しています。
  • 2009年前半は、サンパウロ証券取引所の支援を受けて行った社会起業家向け資本市場のためのパイロットデザイン・プロジェクトに没頭しました。執筆したレポートは、Global Exchange for Social Investment (GEXSI)Social Stock Exchange Association (SSEA)のウェブサイトにて近日中に公開される運びとなっています。
  • また、私が共同創業者として参画しているKaienは、自閉症を持つ方たちの強みを活かしてソフトウェア検証を行うビジネスプランで、4月にニューオリンズで開催されたTulane Business Plan Competitionにおいて優勝を果たしました。その賞金を軍資金に、9月には日本で法人化し事業を開始いたしました。
  • ビジネススクール卒業後は、派遣元のコンサルファームへの復職のタイミングを延ばしてアフリカに渡りました。ルワンダのマイクロファイナンス銀行での一ヵ月半のインターンを含めて、11月中旬までの4ヶ月間、東部および南部アフリカ11カ国を巡りました。約80の現地企業や機関を訪れ、120人以上の投資家・事業家・社会起業家・政府官僚などと面会して意見を交換する中で、中小企業にリスクキャピタルを提供する金融がアフリカの開発に果たす役割に強く関心を惹かれました。
  • 11月中旬からは、ウガンダにあるAfrican Agricultural Capitalという農業関連ビジネスへの投資に特化したベンチャーキャピタルで仕事をしています。
  • その他、ブラジルでの経験を活かして、社会資本市場の整備に向けて準備を進めているシンガポールのImpact Investment Exchange Asia (IIX)やケニアのKenya Social Investment Exchange (KSIX)といった取り組みにも参画することになりました。

春頃には日本に戻る予定です。今年もさらに前進と飛躍に向け挑戦いたしますので、何卒ご指導ご鞭撻のほど宜しくお願い申し上げます。

皆様のご健康とご多幸を心からお祈り致します。

徐 勝徹 a.k.a. cloudgrabber

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2009年10月20日火曜日

南アフリカに来ています

9月中旬にルワンダを発ち、ケニア→マラウィ→ザンビア→ジンバブエ→ボツワナを経て、今は南アフリカのヨハネスブルグに来ています。(アップデートが滞ってますが、各国でのミーティングのメモは英語ブログの方にぼちぼち載せていきます。)

今週は、南アフリカのプライベートイクイティやベンチャーキャピタルの人たちを中心にネットワーキングをし、来週からはモザンビークやスワジランド、レソト、それに南アフリカのダーバンやケープタウンを巡る予定。

また、来月中旬からは、私が所属するコンサルファームからの出向という形で、African Agricultural Capital (AAC)で、4ヶ月ほど仕事をすることになりました。7月にウガンダを訪れたときにこのブログでもご紹介しましたが、農業関連中小企業への投資に特化したベンチャーキャピタルです。

アフリカ諸国を旅行し、事業家や金融業者、それにノンプロフィットおよび政府関係者たちと会って話しをする中で、
  • 零細個人事業主向けのマイクロファイナンスと、中~大規模企業に金融サービスを提供する既存金融機関(銀行、プライベートイクイティ&ベンチャーキャピタル)の狭間で、見落とされてきた中小企業向け金融(いわゆる「Missing Middle」の問題)の、経済発展における重要性
  • その中でも特に農業関連事業向けの金融サービスの欠如とその難しさ
  • アフリカの経済における農業の重要性と今後の成長余地の大きさ
が、自分の中で大きなテーマとして浮かび上がってきているところですので、今回AACでChief Business Development Associateとして仕事ができるのは、この辺りを掘り下げ、今後の展開につなげるにはこれ以上望むべくもない絶好の機会です。学べることは全て吸収しつくすつもりで、全力投球で行きたいと思います。

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2009年9月16日水曜日

ホームステイ

ルワンダでの最初の4週間は、UOBのスタッフのDanielさんの家族とホームステイさせてもらいました。

途上国での長期滞在は、これまでにも何度か経験がありますが、ホームステイをして現地の人と寝食、出退勤をともにするのは今回が初めて。

食事は出されたものを何でも食べる方ですし、お湯が出なかったり、水がにごったり、断水や停電が起きたり、きれいなタオルがなかったりなんてことにも慣れているので、特に不満はありませんでしたが、一番の悩みの種は出退勤時の交通手段でした。

お金を出せば、オートバイタクシーや普通のタクシーもありますけど、庶民の足は何と言ってもバス。ダウンタウンにあるオフィスから、Danielさん宅まで、車で約15-20分ほど。それを、バスを乗り継いでいくと300ルワンダフラン(約50円)、オートバイタクシーで1000フラン(約170円)、普通のタクシーだと4000-5000フラン(約700-900円)します。

ホームステイしている間は、Danielさんの行動に基本的に従うことにしたので、彼がバスに乗る時は私もバスに乗りました。しかし、このバスが、とにかく当てにならない。5分間隔で来たかと思えば、1時間以上来なかったりもする。

絶対的な供給量が少ないので、ピークの時間はバスが来ても、すでに満員で乗せてくれない。席が残っているバスがやっと来ると、我先にバスに乗り込もうと必死の競争になります。並ばないし、ぴったりここに停車すると決まっている場所があるわけでもないので、それこそカオス状態。少しでも遠慮なんてしてたら、本当にいつまでたってもバスに乗れません。

と、まぁそんな訳で、夕方6時に退社して、家にたどり着くのが9時なんてことも何度かありました。全く予測できませんので、肉体的にも精神的にも疲れます。

首都キガリで会社勤めをしていて、自家用車を持っていない人は、誰も一様に、交通手段について不満を述べます。国としても、 生産的なことに費やすことができたはずの国民の時間が大量に浪費されているわけですから、大きな非効率であり、経済的損失でしょう。

こういう環境では、会社をつくってバスの供給量を増やすだけでも大いに社会的意義のある「ソーシャルビジネス」と言えるのかもしれません。

P1000326
Danielさんの長男Shemaくん

考えてみると、私がこれまで途上国に滞在したときは、仕事で、移動の足はいつも用意されていたか、短期の旅行で、現地の人が高くて気軽に使わないようなタクシーもあまり気にせず使ってしまうか、という感じでした。

フィジーやミャンマーで仕事をしていた時に、同じオフィスで仕事をする現地スタッフが、どれほど交通手段のために苦労しているか、私はちゃんと理解できていなかったと思います。自分の想像力・共感力の不足に反省。

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2009年9月6日日曜日

Twitterの活用法 - わたしの場合

前回に続いてTwitterネタです。試みに今回初めて使ってみた読者アンケートには、7名の方が答えてくれました(ちょっと寂しい。。)が、結果は
  • 何それ? 1人
  • アカウントをつくっていない 1人
  • アカウントはつくったが、あまり使っていない 3人
  • 実はツイッター中毒です 2人
と、やっぱりまだTwitterを活用されていない方が多い様子。是非皆さんにもTwitterの情報の滝にうたれる心地よさを味わってみて欲しい!、ということで、今回は私の場合のTwitter活用法をご紹介したいと思います。
  • リアルな知り合いだけでなく、業界の著名人などを気軽にフォロー。その人たちがフォローしている人や、フォローされている人も分かるので、面白そうな人がいればどんどんフォロー。
  • 興味を惹かれるつぶやきには、相手のアカウントネームの前に@マークをつけて返信したり、転送(RT = Retweet)します。
  • そうしているうちに、自分のつぶやきをRTしてくれたり、返事をくれる人が出てきて、フォローしてくれたりもします。お互いにフォローしあうようになれば、Direct Message (DM)で他の人には見られずにやり取りもできるようになります。
  • 数アカウント持って使い分けている人もいますが、私は面倒なので一アカウントだけ。Twitterでは基本的に英語ですが、日本語でも(あと、ほんのたまーに韓国語でも)つぶやいてます。
  • 日本語は、思考の断片を書きとめておくと言う用途が主。
  • 英語は、気になった情報を片っ端からメモする感覚で、RTすることが多いです。
  • 私はmixiにこのブログの更新情報が流れるようにしていますが、同様にTwitterでのつぶやきはFacebookに流しています。
  • 写真や、英語で長くなる文章は、Tumblrを使っています。Twitterとの相性がよく、Tumblrで書いたものが即Twitterに流れるようにできます。
  • 因みに私の中では、Twitter → はてなブックマーク → Tumblr → 本ブログという順に情報の精製度合いが上がっていく感じで使っています。つまり、Twitterではちょっと興味深い情報は何でもRTしますが、その中でもとっておきたい情報ははてなブックマークを使って保存、さらに自分の興味のド真ん中に近いものはTumblrの英語ブログにスクラップしています。日本語ブログをつけている主な目的は、自分の思考をまとめるためですが、日本語より英語の方が言い回しとかあまり気にしないで楽に書けるので、英語ブログは本ブログのネタにするかもしれないことを未調理のまま書いておいたりもします。
  • Twitterを本格的に使い始めて、シンプルすぎるTwitterの機能に不満を感じるようになったら、TweetDeckiPhone用もあります)がおすすめ。SettingsのColors/Fontタブで、International Font/TwitterKeyを選択するのを忘れずに。
と、まぁ雑然としていますが、こんな感じで使っています。他にも皆さんのお勧めの活用法やコツ、テクニックがあったら教えてくださいね。

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2009年9月5日土曜日

(私からも)Twitterのすゝめ

ここにきて、何だか日本でのTwitter熱が俄然盛り上がってきている気がしますね。私がブログチェックしている方たちの中にも、ここ一ヶ月くらいの間にTwitterを始めた人が何人かいますし、メディアでも随分取り上げられているようです。

かく言う私も、アカウントをつくったのが今年の4月で、本格的に使い始めたのは6月にビジネススクールを卒業してからですから、決してアーリーアダプターではありません。

最初はマイクロ・ブロギングという呼称にひきずられて、自分の日々の状況を発信するものだと思って、「ブログをアップデートし続けるので精一杯なのに、そんなに一日に何回も発信することなんてないよなー」と、腰が引けていました。

しかし、少しずつ発信しながら、だんだんフォローし、フォローされる人が増えてくれるにつれて、Twitterの醍醐味が分かってき始めた気がします。

人によって違うと思いますが、通常のブログはまとまった文章を書けるため、その分構えてしまって、なかなか気軽に更新するのが難しいもの。だけど、Twitterだと、140字という文字制限があることで、かえって気軽に思考の断片や、ちょっと気になった情報をメモに書き留めておくくらいの感覚で更新をできるようになります。

また、知人や著名人のブログも、長い文章は読み応えがありますが、なかなか腰を落ち着けて読む時間が取れなかったりします。それがTwitterの短い文章なら、ほんの数秒の仕事の息抜きだったり、移動中の時間に、興味を惹かれるエントリがあればさっと見てさっと反応を返すことができます。

この気軽さによって生まれるコミュニケーションの加速が、思わぬ交流の広がりを生んでくれます。

しかしまぁ、ここまでは、本格的にやる前からある程度想像はできたこと。

想像していなかったのは、Twitterの情報収集ツールとしての威力です。ちょっと大げさに聞こえるかもしれませんが、MBA留学せずとも、その効用の何分の一かはTwitterをうまく活用すれば補えるのではないかという気さえします。

ビジネススクールに留学することの効用の一つの大きな要素は、ネットワークだというのは、多くの人が語っていること。世界中から集まる優秀な学生たちだけでなく、教授陣、彼らのネットワークを通して授業や講演に招かれてくる人々、その他様々なイベントを通じて、自分の関心分野の最先端で活躍する人たちと実際に会って知り合う機会というのは、とても貴重なものです。

そのネットワークも単に顔と名前を見知っているというだけならば、あまり意味がありません。で、このようなネットワークが実際どのようにして役に立つかというと、その効用の大きな部分は、最新情報の流れる輪の中に入るということではないかと思います。情報の中には、就職の紹介などといった重要情報も時にはありますが、より日常的に恩恵を感じるのは、業界プレーヤーの動向だとか、興味深い雑誌や新聞の記事だとか、そういった軽めだけど選りすぐりの情報が絶えず向こうから流れ込んでくることでしょう。

Twitterがあれば、そうした情報網の構築が自宅にいながらできてしまうのです。自分の興味のある業界のオピニオンリーダーたちを見つけてフォローすれば、彼らが伝えたい取っておきの情報や、ちょっと気になった情報にすぐに接することができます。普通のブログをチェックするのもいいですが、Twitterの方が、より頻繁で、リアルタイム性が高く、また即座に要・不要を判断できるような簡潔な形で情報が流れてきますので、はるかに強力な情報収集ツールと言えると思います。

そうして入ってきた情報をまた発信・共有することで、ネットワークが広がっていきます。

Twitterについて聞いたことはあるけど何だかよく分からなくて始めていない人や、アカウントは作ってみたもののどうもピンとこなくて、ほとんど活用していない人は、まずは情報収集ツールだと割り切って使い始めてみてはいかがでしょうか。


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2009年8月29日土曜日

ゴリラのビデオ


先週末、ルワンダのVolcanoes National Parkでゴリラ・トレックに参加した際に撮ったビデオを、ユーチューブにアップロードしました。

体調最悪の中、キャンセル料が惜しくて、抗生物質と痛み止めで体をだまして無理したせいか、このあと数日すさまじい頭痛で寝込んでしまいましたとさ。。

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2009年8月23日日曜日

Kigali Memorial Center - その5

さて、久しぶりに長々と一つのテーマで書いてきたけど、"Kigali Memorial Center"シリーズも今回が最終回。

前回までで、キガリ虐殺記念館を訪ねて、あの大事件をこの国の人はどう解釈し、腹に落とそうとしているのかということについて考えたことを、一通り書いた。

ただ、そうした左脳で考えたこととは別に、虐殺の映像や、累々と横たわる死体の映像、実際の被害者の遺骨といったものを見ながら、私の右脳には全く異なった感覚が湧いていた。

誤解されることを恐れず言葉にするなら、「人間って、でも、そういうもんだよな」ということ。

もちろん、このような過ちを二度と繰り返さないようにしなければいけない、というのは本当にその通りだと思う。

しかし、人間は歴史上数限りない愚行を繰り返してきたし、これからも繰り返していくのだろう。争い、裏切り、殺し合いを続けていくのだろう。

常に向上心をもち、進歩を求めていくのも大事だが、現実というか原点を忘れてしまわないことも同様に大事ではないだろうか。

人工環境に囲まれ、ここ数百年で造られた常識に埋もれて生活していると、つい忘れてしまいがちになるけど、所詮は、人間も他のあらゆる生きとし生けるものと同じ - Born to die。

本来人間なんて野垂れ死にするのが当たり前。

生きがいだの、使命だの、自己実現だのと能書きたれたところで、最後には犬死に。そうと知りながらも生きる。そういうもんじゃないのかな。

ちょっと厭世的に聞こえるかもしれないけど、多分誰の中にもこうした感覚はあるはず。

それから目を背けず、それだけに囚われてしまわず、もりもりもりあがる雲へ歩む。


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2009年8月22日土曜日

Kigali Memorial Center - その4

3. 「国際社会の共犯性」という解釈

「ヨーロッパ人が人為的に分断するまで、元々フツもツチもなかったのだから、いがみ合い続ける理由は本来は無い」(←民族概念の人為性)

「他国で起きた集団虐殺と同様に、本当に悪いのは権力中枢にいた一部の首謀者たちで、虐殺に参加した一般のフツは踊らされていただけだ」(←他の集団虐殺との同質性)

民族を分ける身分証明書も廃止された。ルワンダ国際戦犯法廷も、国内の草の根裁判(Gacaca)も、全ての判決を終了した。公式にはフツもツチもなく、ただルワンダ人がいるだけということになり、国民が一致団結し、過去を払拭して社会の発展に邁進することが国是とされる中、今ではフツとかツチを分けて語ることさえほとんど社会的なタブーとなっている。

しかし、あれだけの惨事を水に流して和解するには、被害者も加害者もお互いに感情的しこりが大きすぎる。そこで、やり場に困る怒りの捌け口として登場する便利なスケープゴートが、「国際社会 (international community)」だ。

虐殺記念館の展示は、フランス軍がフツ政権や民兵組織を支援していたことや、国連が無力だったこと、そして国際機関や各国の要人が事件当時の対応の鈍さについて後になって遺憾の意を表したことなどについて大きなスペースを割いている。そこで繰り返し述べられているのは、「国際社会」が如何にこの悲劇を傍観し、意図的か否かに関らず事態を助長・悪化させたかである。

ツチの友人と話してみても、フツに対するコメントには抑制をきかせるが、「国際社会」に対しては怒りを隠そうとしない。それは、単なる傍観者に対する怒りというより、共犯者に対する怒りもしくはそれ以上のように聞こえる。

確かに、惨事を止めようとすれば止めることが「できたはず」の者が、全く救いの手を差し延べてくれないばかりか、見方によっては凶行の幇助をしたとあれば、怒りを感じるのは当然だろう。しかも、実行犯に対して直接怒りをぶつけることができない何らかの事情があれば、尚更のことだ。

しかし、共犯扱いされている「国際社会」とは一体何なのか。

国際政治について少しでも理解している人だったら、国連自体を非難してもほとんど意味の無いことは知っている。意志決定者である加盟国、その中でもこの場合は安保理の理事国がやれということを(官僚組織特有の非効率性や、時としてスキャンダルはあっても、基本的には忠実に)実行し、やるなということはやらないのが国連という組織だ。それ以上でもそれ以下でもない。

非難するとしたら、事件当時のフツ急進派臨時政権にも軍事的支援を継続したフランスや、虐殺が起きている最中に国連部隊から撤収したベルギー、ジェノサイド条約(集団殺害罪の防止および処罰に関する条約)における介入義務を避けるため、「ジェノサイド」か「ジェノサイド的行為」かという言葉遊びを弄して安保理でリーダーシップを発揮しそこなった超大国アメリカということになるだろう。

しかし、フランスとは2006年に国交を断絶しているとはいえ、これら諸外国とは、内戦後の国家復興と経済発展のために大切なパートナーとして付き合っていく必要があり、名指しで恨み言をいうのは憚られる。そのために、「国際社会」という実体のない言葉が、選んで使われているということではないだろうか。

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2009年8月21日金曜日

Kigali Memorial Center - その3

2. 「他の集団虐殺との同質性」という解釈

1994年からは15年の歳月が流れているが、いまだにルワンダと聞けばあの集団虐殺を真っ先に思い浮かべる人がほとんどではないだろうか。政府は「不幸な過去を乗り越え、未来に向かってダイナミックに発展しているアフリカの新興国」という対外イメージをつくりだし投資を誘致しようと懸命だが、ルワンダという国の名は、集団虐殺というキーワードと不可分な形で世界中の多くの人々の脳裡に焼き付いている。

これは、カンボジアやボスニアなどと比べても、さらに深刻な気がするのだが、なぜだろう。

アフリカ大陸の中央に位置する小国であるため、海外で集団虐殺以外のルワンダに関する情報に触れる機会が少ないというのは一つの理由だろう。しかし、それだけではない気がする。

私は、虐殺記念館を訪れてみて、自分自身の中にあったルワンダの集団虐殺に関するイメージの特殊性に気づいたのだが、多分これがもう一つの理由ではないか。

ナチスによるユダヤ人やジプシーの虐殺や、カンボジアのポルポト派による虐殺、ボスニア紛争時の民族浄化、その他思いつく限りの集団虐殺(genocide)の事例には、国・党・軍といった組織が介在していた。集団虐殺を企画・実行・扇動しようとするこれら組織の指導者の動機は、決して肯定されるべきではないにしても、理性である程度理解が可能なものだった。

これに対し、ルワンダの件に関しては、何か極めて自然発生的に、突然あれだけ大規模な殺戮が起きたというような漠然とした印象が流布しているように思う。私自身も、虐殺以前の政権による民族問題の政治化や、インテラハムエによる扇動といったことについては、ニュースで読んで知ってはいた。しかし、無意識のうちにそれらを副次的な情報として認識していて、事件全体の根本的な理解としては、民族間対立の原初的な感情に駆られて起きた大虐殺というイメージを持っていたのだと思う。そこには、アフリカでの事件ということで、正直に言って私の中に偏見もあったのだろうと反省した。

その理性では捉えきれない動機の得体の知れなさ、不気味さが、世界の多くの人の意識の中で、ルワンダの事件を他の集団虐殺から際立たせている大きな理由ではないだろうか。

しかし、虐殺記念館の展示を見て、ルワンダの虐殺がいかに前政権の中枢や軍によって意図的に準備され、組織的に扇動・幇助されていたかを再認識した。ハビャリマナ前大統領等の主導陣が、人口の10%以上を殺害してしまうような大量虐殺を元々企図していたのではなかったにしろ、彼らが作り出したフツ至上主義のプロパガンダ組織や民兵組織が、内戦と大統領暗殺という異常事態の中で暴走してしまった結果が、あの虐殺だった。

虐殺に参加した一般のフツも、その多くは社会的弱者である貧困層で、経済的報償や強制、それに恐怖やツチへの嫉妬といった様々な要因によって動員されたという。

実は、こうした解釈は、一般国民の融和を促進しようとし、また前政権を批判することで自らの正当性を主張したい現政権の利害にも合致している。

この虐殺記念館の一つの特徴が、二階にある他国での集団虐殺の事例に関する展示だ。Aegis FoundationというNPOの支援を受けて設立されたため、ここを訪問することでルワンダだけでなく他の地でも人間が歴史上行ってきた虐殺行為について知る機会にしてもらい、この国に限った異常な例ではなく人類が共通して抱える病いとして集団虐殺を理解して欲しいという意図も、そこにはあるだろう。しかし、ルワンダの虐殺を他の虐殺と同質のものとして説明することは、現政権にとっても都合が良い。

もちろん、こうした解釈を全て鵜呑みにすることは決してできないだろう。自発的な側面も無かったわけではないはずだ。

だが、100万人近くの人間を殺そうとすれば、その活動を組織だって行わなくては無理だということは、少し冷静に考えれば自明のことなのかもしれない。殺される側だって、無抵抗ではないし、団結して行動しようともする。殺す側も、自然に人間が持つ情を抑え、行動を正当化し、また圧倒的な武力を備える必要がある。やはり、合法的に暴力を独占する公権力とその組織が何らかの形で積極的に関らなくては、小規模な戦闘ではなくあれだけの集団虐殺になるという事態は、ちょっと考えにくい。

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2009年8月20日木曜日

Kigali Memorial Center - その2

虐殺記念館の展示と、それに代表されるルワンダでの公式のあの集団虐殺に関する解釈について、特に興味深かった点が3つある。これらは、全くの事実でも全くの嘘でもないが、あの事件後の国民をまとめるためには、とても重要な役割を果たしている。

1. 「民族概念の人為性」という解釈

虐殺記念館の展示は、19世紀のヨーロッパ人の到来から語り始める。その前については、この地には一つの言語を話す一つの民族が平和に暮らしていたという設定で、プロローグ程度の極めて短い扱いだ。

そこにドイツ人が現れ、第一次大戦後はベルギー人がルワンダの統治者となる。もともとフツとかツチというのは、日本で言えば武士とか商人みたいに社会経済的階層でしかなかったのに、ベルギー人は分断統治のために、この二つのグループを異なる民族として扱い、少数派のツチを優遇する政策をとる。それまでフツとかツチというアイデンティティは希薄で、必ずしも固定したものでもなかったが、政府は財産の多寡だとか見た目の特長といった恣意的な基準で、人々をフツとツチと(あと先住民族のトゥワ ― 彼らは英語でTwa Pygmiesとも呼ばれるように、身長が低いなどフツやツチと明確に異なる身体的特長を持つ)に分け、身分証明書を持たせた。その過程では、家族の間でも違う民族に分けられることさえあったという。フツに対する差別的政策は、フツとツチとの間に深い溝を作り出し、後の民族間紛争の原因となった。

このように民族間(少なくともフツとツチの間)の違いはもともと無く、よそ者のベルギー人が人為的に作り出したものにすぎないというのが、公式解釈。映画の『ホテル・ルワンダ』でも、主人公が外国人に大体これに沿った説明をしているシーンがあった。

私自身、境界上の人間として、「日本人」とか「韓国人」とかいう概念を実体的に磐石不変のものとしてあるかのように捉える言説には違和感を感じることが多いのだが、このルワンダの民族観はその対極にあるといっていいだろう。

フツとツチの起源や違いについては、学者の間でも大きく意見が分かれているらしいので、素人の私が軽率にどうこう断定することができるものでもない。しかし、憶測にすぎないことを承知で言うならば、多分事実はその両極の間のどこかにあるのであろう。

トゥワ族が住んでいたこの地に、10-11世紀頃にフツ族がやってきて支配し、さらに15-16世紀頃にツチ族が移住してきて王国を築いたという従来の定説が、全くのでたらめでないとすれば、数百年の間に一つの言語を話すようになったというのだから、交流や混血は相当程度に進んでいたはずだし、そのアイデンティティも流動的だったり希薄だったりしたかもしれない。それでも、ルワンダの人に聞くと、フツとツチを外見で100%見分けることはできないが、だいたいの精度で推測することはできると言う。実体的差異が全くなかったところに、完全に人為的に民族概念が捏造されたというよりは、幾分かの実体があったところに、それを多分に恣意的に誇張・増幅したのがベルギーによる政策だったということではないだろうか。

しかし、「フツもツチも元来一緒で、民族間の確執は全て植民地時代の政策が作り出した幻想によって生まれたもの」というシンプルな解釈は、全ての国民が同じルワンダ人として過去を乗り越え、未来の発展へと向かわせるためにはとても有用だし、おさまりもよい。

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2009年8月19日水曜日

Kigali Memorial Center - その1

ルワンダの首都キガリにある虐殺記念館(Kigali Memorial Center)を訪れた。

「ルワンダに来た外国人で、ここに行かない人はいない」といわれるほどの観光スポットなので、外国人向けを主に意識した展示になっているのかなと思ったが、説明書きはまずルワンダ語で大きく、その下に小さな字でフランス語と英語の訳。

無理もない。この国を根底から揺るがした歴史的大事件であっただけに、自国民の中であの集団虐殺をどう記憶し消化するかは、国家建設においてこの上なく重要な問題だろう。


私は、解釈の介在しない歴史など無いと、考えている。これは何も、歴史は嘘と主観のかたまりであるとか、都合の良いこじつけの歴史修正主義を容認するとかいうことではない。

究明しうる限りの事実と、それらに基づいて語り手が伝えようとするメッセージとを、できるだけ無理なくつなげて、一つの構造物として組み立てるものが歴史という「物語」だとしたら、その作業には、唯一絶対のやり方など存在しない。解釈とは、全くの嘘とも完全に事実とも言い切れない、そういうグレーゾーンをつなぐセメントのようなもので、そこには事実の取捨選択と価値判断とが混ぜ合わさっている。

虐殺記念館での展示を見て、またその後ルワンダ人と話しをしながら、そうした歴史の解釈という行為について色々考えさせられた。

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