2008年2月3日日曜日

偽善考 - その3

これまで、行動の意図を以って善と偽善を分けるのが難しいことを見てきましたが、そもそも善と偽善を分けることには、どんな意味があるのでしょうか。「偽善」という概念の使い道を考えてみると、大きく二つあります。

  • 世間一般には善だと認識されている他者の行動を批判するためのレッテル
  • 自ら善だと信じて行っている行動を省察するための反面教師

善か悪かの判断は、立場や視点、イデオロギーの違いによりますが、白黒はっきりした対立的な性質のものです。それに対して、善か偽善かはグレーゾーンでの判断で、「この行動は本当に善と言ってよいのか、より白に近い善があるのではないか」と警鐘を鳴らす、建設的な可能性を持っています。

だとすると、「人が為す善は須く偽善」とだけ言ってすませ、善と偽善の差異を曖昧なままにしておいては、考察が不十分だということに気づきます。

従来の一般的な「偽善」の定義では、行動の意図が重視されているが、これは善と偽善を分ける軸としてあまり有効でないという私の意見はすでに述べました。それならば、「偽善」の概念が持つ建設的なポテンシャルを活かすために、他のどのような軸を持ってくる必要があるのかを考えなくてはなりません。

私は、より有効な偽善の定義のためには、以下の二つについて着目する必要があると考えます。

  1. 行動の結果: 「善意が敷き詰められた道は地獄に通じている (The road to Hell is paved with good intentions)」と言われるように、善意からの行動がかえって問題を悪化させるという事態は、実際によくあることです。悪化させるには至らなくても、行動が非効果的、非効率的で所期の結果に結びつかないと、善なる行動としての正当性を失い、これが偽善と呼ばれることもあります。例えば、物乞いに小銭を与える行為や、街頭で寄付箱に小銭を入れる行為を見て偽善であるとする人たちは、効果や効率のことを問題にしています。ここで「偽善」という言葉が指しているのは、行動と結果の間の断絶のことになります。
  2. 行動の過程: 目的(意図)は手段を正当化しません。同様に、結果が過程を正当化することもできません。ある行動が善であるためには、意図と結果だけでなく、その過程も重要であると私は考えます。特にここで私が重視するのは、説明責任(accountability)の問題です。ある行動を取る際には、どうしてその行動が適当と考えられるのか、他にどのような選択肢が検討されたのか、その決定には誰の意見が反映されているのか、実際に結果が善いものであるかどうかを判断するのは誰か、といった点を考える必要があります。善意から発して、善い結果を例え生み出していたとしても、手続き上の正当性が欠けている場合には、これもまた「偽善」と呼ばれて如かるべきです。

最もよく使われる、利己的な意図によるという意味での「偽善」と区別するとしたら、1の意味での偽善は「非善」、2の意味での偽善は「独善」または「虚善」とでも言い換えてもいいかもしれません。

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