2008年2月4日月曜日

偽善考 - その4

あるCSRの活動を、そこに利己的な打算が働いているからといって、偽善であると単純に切って捨てるのは、あまり意味がないと思います。そもそも狭義の自社利益と広義の自社利益(≒公共利益)をバランスさせるのがCSRであって、完全に利他的なCSRなど持続不可能です。しかし、企業のような巨大なリソース(ヒト、モノ、カネ、情報)を持つ主体の取る行動は、結果や手続きの観点から、より適切なやり方はないのかが吟味されなくてはなりません。

公共の利益を旗に掲げて大きなリソースを振り向けるからには、そのリソースが完全に私的な性格のものであったとしても、行動の結果や手続きの妥当性については公的な責任を伴います。これはCSRに限らず、NPO/NGOやゲイツ財団のような私的財団、さらには1997年に10億ドルを国連に寄付したテッド・ターナーのような個人についても当てはまる問題です。

ソーシャル・セクターでも最近は、効果・効率に関する結果の議論は盛んになっていますが、手続きに関しては「リソース提供者への説明責任」はより強調される一方で、その行動の対象となる「受益者への説明責任」の方はやや疎かにされているという印象を受けます。一昨年になりますが、The Economistのフィランソロピーの新しい潮流に関する特集記事を執筆したMatthew Bishop氏がインタビューで、"How do these (very wealthy) people dare to impose their view of what a better world is on the rest of us?"という正統性 (legitimacy)の問題を指摘していた事が思い出されます。

さて、これまで4回にわたり長々と偽善に関する考察を書き綴ってきましたが、私の目的は誰かの行動を「偽善である」と糾弾して止めさせることではありません。逆に、視野の狭い私利私欲の追求を礼賛するつもりもありません。

第1回のエントリーへのコメントでみやさんが書いていらっしゃったように、一つの行為やその結果に対しても人によって受け止め方が異なる以上、万人が同意するような普遍的な善など無いのではないかと思います。しかし例え「人が為す善は須く偽善」だとしても、公共善や公共の利益、あるいは社会貢献といった言葉を口にする者は、自分の行いがどのようにすれば一歩でもより善に近づけるのか、常に冷徹かつ謹厳に考え行動に移していかなければなりません。

  • 行動の意図は必要十分に広い視野に基づいているか
  • 行動が効果的かつ効率的に結果に結びついているか
  • 行動の過程には説明責任が担保されており、異なる視点や価値観に開かれたものになっているか

これらの点が全て完璧になることはありえないにしても、より高いレベルでのバランスを達成するために弛まぬ努力が必要なのです。

自分たちの行為が善であることを自明のことと考えてしまうと、中野好夫が『悪人礼賛』で「精神的奇形 (moron)」とこきおろした、脳天気で無軌道で無責任な「善意の善人」になってしまう危険性があります。

それを避けるためには、「善ならざるものとは何か」について掘り下げて考えてみる必要があると思い、愚見を今回このような形でまとめてみました。稚拙な長文にもかかわらず、最後までお付き合い頂きありがとうございます。

2 件のコメント:

  1. 非常に質の高い考察で、参考になりました。

    コメントを、その4に限定しますが、
    「受益者への説明責任」は非常に共感を
    感じます。併せて、最後に挙げられた3点も
    とても重要なポイントだと思います。

    なお、日本において、日本や地域の公益、
    もしくは共益とは何か?
    そして、誰がどのように扱い担っていくか?
    という議論が非常に曖昧だとも
    感じています。
    (蛇足ですが公益法人改革は進行中です)

    こうした提唱を是非、続けて頂きたく、
    これからも拝見するのを楽しみにして
    おります。

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  2. > oroさん

    コメントいただきありがとうございます。

    公益法人改革については私も関心を持って追っていますが、確かに法律で公益とか共益を法律で定義しようとするのは難しいなと、感じますね。

    間口を広くしておくために、どうしても形式的(パブリック・ベネフィット・テストとかパブリック・サポート・テスト)な漠然とした定義しかできません。

    やはり、本当に大切なの法律でも定義なく、それらを使う意志とアイデアなんだと思います。

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