2008年2月1日金曜日

偽善考 - その1

偽善とは何だろうか。2週間ほど前のThe EconomistのCSRに関する特集記事を読んでいて、そんなことを考えました。

偽善とは読んで字の如く「偽りの善」ですから、通常の解釈ではつまるところ、うわべは善い行いをしていても、その底には利己的な意図が働いていることだということになるでしょう。

ここでは、利他的な意図は善と深く結び付けられる一方、表にあらわれる行動がどうあれ利己的な意図は善ならざるものという価値判断が、前提になっています。「善とは何か」という問いに対しては、太古から優れた思想家が色んなことを言っていますが、要するに何らかの道徳的・倫理的規範に沿った行いのことです。してみると、そうした規範を顧みることなく、自らの気の向くままやりたい放題のことをやっていては、当然「善」を実現することはできないということになるでしょう。

ただ、本当に利他的意図は、利己的意図とは相容れない全く反対の概念なのでしょうか。

The Economistの記事ではCSRについて、結局それは「enlightened self-interest」に基づいた企業行動のことだと結論しています。私も、利他的意図と利己的意図は対極の関係にあるのではなく、「自己」というものを理解する際にその包含する範囲を少しずつ広げていったグラデーションの差でしかないと考えています。「自己」の概念が、生物学的自己から始まって、家族、共同体、民族、国家、人種、人類、未来の人類、地球上の生物というように広がっていく時に、狭小な「自己利益 (self-interest)」は、空間や時間の壁を越えた「視野の広い自己利益 (enlightened self-interest)」へと移行していくのだと思います。

このように考えると、「真の善」と(利己的な意図によるという意味での)「偽りの善」も連続した関係にあり、必ずしも一方は賞賛されるべきで他方は非難されるべきということではない気がしてきます。

「為さぬ善より為す偽善」という言葉があります。よく見てみると、「偽」という漢字は「人」が「為す」と書くことに気づきます。極論すれば「人が為す善は須く偽善」とさえ言えそうです。

6 件のコメント:

  1. 深いですね。人が為すことが万人にとって同じ受け止められ方をすることはないのではないかと思います。人が為す善は須く偽善・・・共感いたします。

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  3. 善を為したいと思う人や、善を為していると喧伝する人が多くいる一方で、実際にそれができていない人も多くいるのはなぜだろう。

    第一、善とは何で、それを為そうとするものが気をつけなくてはいけないことは何だろうか。

    生活感覚から乖離した難解な倫理学論議に陥ることなく、こうした疑問に答えを出すには、「善」の反対概念である「悪」よりも、善と隣接していて、グレーで分かりづらい「偽善」についてよく知る必要があると考えました。

    この後、その2は企業の倫理的行動について、その3は新しい偽善の定義について、と続いて書かせていただく予定ですので、お付き合いいただけると幸いです。

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  5. >利他的意図と利己的意図は対極の関係にあるのではなく、「自己」というものを理解する際にその包含する範囲を少しずつ広げていったグラデーションの差でしかないと考えています

    これ、とても同感です! 思っていたことをクリアな言葉にしていただいた感じで、すっきりしました。

    その3も楽しみにしています♪

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  6. > ミミーさん

    思っていることを言葉にするって、やっぱり難しいもんですね。でも思考の整理にはとても良い機会になります。

    さらに、こうしてご共感いただけた方からコメントをもらえると、苦労のしがいもあったってことですね。

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