2008年1月1日火曜日

ドミニカ共和国&ハイチ旅行 - その4

12月21日 (金) 【ハイチ】

朝から航空会社に電話して、昨日の荷物について問い合わせる。幸い朝9時半の飛行機でCap-Haitienに到着し、ホテルに配送するよう手配したらしいが、空港からホテルまで車で10分程度の距離なのになかなか届かない。その間にユネスコ世界遺産のCitadelleへ行く方法について情報収集。妻がホテル内で知り合った現地在住らしい老婦人から、知り合いを紹介してもらうことができ、ツアーに参加するより安く行けることになった。

写真家で慈善事業家のAlecia Settleさんも同じホテルで滞在中で、彼女の作品の"Visualize Haiti"を見せてもらった。彼女の養女がハイチ出身で、この写真集の収益はすべてハイチの支援プログラムに使われるとのこと。今回もCrocs社から寄付されたサンダルを届けるためにハイチを訪れているのだそうだ。

正午過ぎに老婦人に紹介してもらったArryさんと一緒に、Citadelleに向かう。彼のオートバイに三人乗りで、舗装されていない道をぶっとばす。途中で国連ハイチ安定化ミッション(MINUSTAH) の装甲車とすれ違う。ここも思ったよりも物騒なようだ。

Citadelleのある山の麓でガイドを雇って、馬に乗り換えSans Souci宮殿を通り過ぎ、約1時間半でCiadelleにたどり着く。 1804年にハイチがフランスから独立し世界初の黒人共和国となった後、独立戦争の功労者だったJean-Jacques Dessalinesはナポレオンをまねて帝位に就いたが、その専制的な支配は反感を買い、1806年には暗殺されてしまう。その後1820年まで続いた内戦で、南部でmulatto勢力を率いたAlexandre Petionに対し、北部で黒人勢力を率いたHenri Christopheによって造られた宮殿がSans Souciで、Citadelleはフランスの再侵攻に備えて築かれた山城。

Sans Souci宮殿

馬で山頂を目指す

Citadelleが見えてきた

Citadelleの中庭

CitadelleとSans Souci宮殿の見学を終え、麓に下りて来るともう午後5時近くになっていた。待機していてくれたArryさんのオートバイに乗り、暗くなりかけた中を相当ヒヤヒヤしながらCap-Haitienに戻って来る。日本で吸う砂埃と排気ガスの5年分を一日で吸いこんだ気がする。

ホテルに戻る前に、Arryさんに頼んでCD屋に寄ってもらう。ハイチでは、ブードゥーは音楽のジャンルとしても確立しており、またブードゥー音楽がアメリカのジャズの影響を受けて生まれたRacinesというジャンルもある。CD屋の主人オススメのブードゥー音楽とRacinesのCDを一枚ずつ購入する。

ホテルに戻ると、部屋にスーツケースが届いていて一安心。

12月22日 (土) 【ハイチ→ドミニカ共和国】

朝6時半過ぎにマイクロバスに乗ってCap-Haitienを出発し、二時間ほどで国境の町Ouanamintheに到着。オートバイで国境まで行き、出国手続きの後徒歩で国境を越えると、そこはドミニカ共和国側の町、Dajabon。混沌としたハイチを出て、正直ほっとする。

ハイチとドミニカ共和国の国境(Ouanaminthe側)

Dajabonからは、Santiago経由でCabareteまで、サント・ドミンゴ-ポルトプランス間でも使ったCaribe Toursのバスを利用。至極快適。

それにしても、今回の旅行では妻の語学力に依存しっぱなしだ。フランス語もスペイン語も少しかじったことはあるので、カタコトで意思疎通くらいできなくはないが、パリやペルーで仕事をしたことがある妻の方が実力ははるかに上。ハイチではクレオール語だけを話す人も多かったが、それでも英語よりはフランス語を解する人の方がずっと多いので、一人旅だったら相当苦労しただろう。

0 件のコメント:

コメントを投稿