ルワンダの首都キガリにある虐殺記念館(Kigali Memorial Center)を訪れた。
「ルワンダに来た外国人で、ここに行かない人はいない」といわれるほどの観光スポットなので、外国人向けを主に意識した展示になっているのかなと思ったが、説明書きはまずルワンダ語で大きく、その下に小さな字でフランス語と英語の訳。
無理もない。この国を根底から揺るがした歴史的大事件であっただけに、自国民の中であの集団虐殺をどう記憶し消化するかは、国家建設においてこの上なく重要な問題だろう。
私は、解釈の介在しない歴史など無いと、考えている。これは何も、歴史は嘘と主観のかたまりであるとか、都合の良いこじつけの歴史修正主義を容認するとかいうことではない。
究明しうる限りの事実と、それらに基づいて語り手が伝えようとするメッセージとを、できるだけ無理なくつなげて、一つの構造物として組み立てるものが歴史という「物語」だとしたら、その作業には、唯一絶対のやり方など存在しない。解釈とは、全くの嘘とも完全に事実とも言い切れない、そういうグレーゾーンをつなぐセメントのようなもので、そこには事実の取捨選択と価値判断とが混ぜ合わさっている。
虐殺記念館での展示を見て、またその後ルワンダ人と話しをしながら、そうした歴史の解釈という行為について色々考えさせられた。
2009年8月19日水曜日
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