虐殺記念館の展示と、それに代表されるルワンダでの公式のあの集団虐殺に関する解釈について、特に興味深かった点が3つある。これらは、全くの事実でも全くの嘘でもないが、あの事件後の国民をまとめるためには、とても重要な役割を果たしている。
1. 「民族概念の人為性」という解釈
虐殺記念館の展示は、19世紀のヨーロッパ人の到来から語り始める。その前については、この地には一つの言語を話す一つの民族が平和に暮らしていたという設定で、プロローグ程度の極めて短い扱いだ。
そこにドイツ人が現れ、第一次大戦後はベルギー人がルワンダの統治者となる。もともとフツとかツチというのは、日本で言えば武士とか商人みたいに社会経済的階層でしかなかったのに、ベルギー人は分断統治のために、この二つのグループを異なる民族として扱い、少数派のツチを優遇する政策をとる。それまでフツとかツチというアイデンティティは希薄で、必ずしも固定したものでもなかったが、政府は財産の多寡だとか見た目の特長といった恣意的な基準で、人々をフツとツチと(あと先住民族のトゥワ ― 彼らは英語でTwa Pygmiesとも呼ばれるように、身長が低いなどフツやツチと明確に異なる身体的特長を持つ)に分け、身分証明書を持たせた。その過程では、家族の間でも違う民族に分けられることさえあったという。フツに対する差別的政策は、フツとツチとの間に深い溝を作り出し、後の民族間紛争の原因となった。
このように民族間(少なくともフツとツチの間)の違いはもともと無く、よそ者のベルギー人が人為的に作り出したものにすぎないというのが、公式解釈。映画の『ホテル・ルワンダ』でも、主人公が外国人に大体これに沿った説明をしているシーンがあった。
私自身、境界上の人間として、「日本人」とか「韓国人」とかいう概念を実体的に磐石不変のものとしてあるかのように捉える言説には違和感を感じることが多いのだが、このルワンダの民族観はその対極にあるといっていいだろう。
フツとツチの起源や違いについては、学者の間でも大きく意見が分かれているらしいので、素人の私が軽率にどうこう断定することができるものでもない。しかし、憶測にすぎないことを承知で言うならば、多分事実はその両極の間のどこかにあるのであろう。
トゥワ族が住んでいたこの地に、10-11世紀頃にフツ族がやってきて支配し、さらに15-16世紀頃にツチ族が移住してきて王国を築いたという従来の定説が、全くのでたらめでないとすれば、数百年の間に一つの言語を話すようになったというのだから、交流や混血は相当程度に進んでいたはずだし、そのアイデンティティも流動的だったり希薄だったりしたかもしれない。それでも、ルワンダの人に聞くと、フツとツチを外見で100%見分けることはできないが、だいたいの精度で推測することはできると言う。実体的差異が全くなかったところに、完全に人為的に民族概念が捏造されたというよりは、幾分かの実体があったところに、それを多分に恣意的に誇張・増幅したのがベルギーによる政策だったということではないだろうか。
しかし、「フツもツチも元来一緒で、民族間の確執は全て植民地時代の政策が作り出した幻想によって生まれたもの」というシンプルな解釈は、全ての国民が同じルワンダ人として過去を乗り越え、未来の発展へと向かわせるためにはとても有用だし、おさまりもよい。
2009年8月20日木曜日
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