2009年8月22日土曜日

Kigali Memorial Center - その4

3. 「国際社会の共犯性」という解釈

「ヨーロッパ人が人為的に分断するまで、元々フツもツチもなかったのだから、いがみ合い続ける理由は本来は無い」(←民族概念の人為性)

「他国で起きた集団虐殺と同様に、本当に悪いのは権力中枢にいた一部の首謀者たちで、虐殺に参加した一般のフツは踊らされていただけだ」(←他の集団虐殺との同質性)

民族を分ける身分証明書も廃止された。ルワンダ国際戦犯法廷も、国内の草の根裁判(Gacaca)も、全ての判決を終了した。公式にはフツもツチもなく、ただルワンダ人がいるだけということになり、国民が一致団結し、過去を払拭して社会の発展に邁進することが国是とされる中、今ではフツとかツチを分けて語ることさえほとんど社会的なタブーとなっている。

しかし、あれだけの惨事を水に流して和解するには、被害者も加害者もお互いに感情的しこりが大きすぎる。そこで、やり場に困る怒りの捌け口として登場する便利なスケープゴートが、「国際社会 (international community)」だ。

虐殺記念館の展示は、フランス軍がフツ政権や民兵組織を支援していたことや、国連が無力だったこと、そして国際機関や各国の要人が事件当時の対応の鈍さについて後になって遺憾の意を表したことなどについて大きなスペースを割いている。そこで繰り返し述べられているのは、「国際社会」が如何にこの悲劇を傍観し、意図的か否かに関らず事態を助長・悪化させたかである。

ツチの友人と話してみても、フツに対するコメントには抑制をきかせるが、「国際社会」に対しては怒りを隠そうとしない。それは、単なる傍観者に対する怒りというより、共犯者に対する怒りもしくはそれ以上のように聞こえる。

確かに、惨事を止めようとすれば止めることが「できたはず」の者が、全く救いの手を差し延べてくれないばかりか、見方によっては凶行の幇助をしたとあれば、怒りを感じるのは当然だろう。しかも、実行犯に対して直接怒りをぶつけることができない何らかの事情があれば、尚更のことだ。

しかし、共犯扱いされている「国際社会」とは一体何なのか。

国際政治について少しでも理解している人だったら、国連自体を非難してもほとんど意味の無いことは知っている。意志決定者である加盟国、その中でもこの場合は安保理の理事国がやれということを(官僚組織特有の非効率性や、時としてスキャンダルはあっても、基本的には忠実に)実行し、やるなということはやらないのが国連という組織だ。それ以上でもそれ以下でもない。

非難するとしたら、事件当時のフツ急進派臨時政権にも軍事的支援を継続したフランスや、虐殺が起きている最中に国連部隊から撤収したベルギー、ジェノサイド条約(集団殺害罪の防止および処罰に関する条約)における介入義務を避けるため、「ジェノサイド」か「ジェノサイド的行為」かという言葉遊びを弄して安保理でリーダーシップを発揮しそこなった超大国アメリカということになるだろう。

しかし、フランスとは2006年に国交を断絶しているとはいえ、これら諸外国とは、内戦後の国家復興と経済発展のために大切なパートナーとして付き合っていく必要があり、名指しで恨み言をいうのは憚られる。そのために、「国際社会」という実体のない言葉が、選んで使われているということではないだろうか。

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2 件のコメント:

  1. フランスが軍事政権に加担し、ベルギーは撤収。

    それはひどすぎますね。

    人権なんて標榜する資格がないです。

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  2. > scorpioさん

    確かにひどいです。怒りを感じるのももっともだと思います。

    でもそれが国際政治の現実。アメリカの後押しを受けたツチ勢力に対抗し、フランスは自国の影響力を残したかったのだといわれています。

    それでも、偽善でも二枚舌でも、人権を語ることには、非道を糾弾する者に正統性をあたえるという点で一定の意義があるとも思います。

    返信削除